第二十九回 小学6年生だった頃。

 小学6年生だった頃。人気があったわけでもなく、運動神経が抜群だったわけでもなく、なにか特技のようなものがあったわけでもないくせに、ただ目立ちたがり屋だった私は、あろうことか児童会の会長に立候補をしました。
 どこの小学校でもそうなのでしょうか、投票前には一週間程度の選挙期間と選挙運動の真似事を行う風習があって、キャッチコピーのついたポスターづくり、全校生徒の前での所信表明演説、登下校時のあいさつなどなど、各学年2クラスずつしかない田舎のちいさな小学校でしたが、選挙期間はそれなりの盛り上がりがあったように思います。
 そんなある日、給食の準備をしている最中に、誰かが牛乳瓶の入った箱を落としてしまいました。廊下には割れてしまったいくつかの瓶の破片とこぼれてしまった牛乳が広がりました。周囲はざわざわとして、落としてしまった子はわなわな。それでも、何人かの子たちは「大丈夫、大丈夫」と掃除をするために雑巾とバケツを用意しはじめていました。

 そのとき、私はふいに雑巾を手に持ってその場へ走り寄り、誰よりも先に廊下に膝をついて瓶の破片を集め、牛乳をふきました。

 誰かが困っているのを助けるのは素晴らしいことだし、決して卑下するようなことではありません。
 ただ、あの時に私が走っていってまで我先にと掃除をしたのは、ほかでもない"選挙期間"だったからです。私は廊下にこぼれた牛乳をふきながら、自分はとんでもなくズルくてカッコ悪いやつなんじゃないかと思い知らされた気がしました。きっと、友達には半分見透かされていた「おー」という歓声の中、廊下にひざをつきながら見たあの風景は今も頭にこびりついています。
 後日、私は投票で児童会長に選出され、それなりにたのしい思い出もできましたが、それからの学校生活で自分から名乗り出るような場面はなんとなく避けていったように思います。


 あの時の違和感。(オレ、すげえダサいやつなんじゃないか)と思うに至った幼い"選挙ごっこ"は、それでも今の自分に少なからず影響を与えているように思います。

 あの経験があったからなのかどうなのか。どちらかといえば、私はこれまでずっと政治に関心を持ってきました。それは、私たちが暮らしている社会の仕組みや成り立ち、そして自分自身も含めた "人間"というものを知るためのこれ以上ない教材である気がしていたからです。そしてそれは、やっぱりとても"おもしろかった"のです。

 ただ、政治を通して得られる情報は、たとえそれが自分に共感を与えてくれるものであったとしても、決して健康的な関心事ではないように思います。そして、まだ小学生だった自分の経験からしても、"政治家"という職業の方たちやその言動は、それを発信する方がどれだけ素晴らしい方であったとしても、ある一定の"違和感"を持ってしまいます。

 その"違和感"は、誰かの一票を獲得するために私がとった行動のような"偽善的なもの"に対してではなく、自分が正しいと思うことを大きな声で表明する、もしくは表明しなければいけない職業であることとその環境に対するそもそもの違和感だと思います。

 だったらそんなこととは距離をとって、今の自分のすぐそばにある現実や時間に身を置くほうが、ずっと健康的でたのしいのではないかといつも思います。投票率の低さは、日本だけではなく、世界のあらゆる先進国にとっての問題だそうですが、それはそうだろう、と思います。
 選挙というのは、私たち有権者にとってだけではなく、おそらく立候補している人にとっても、どこか異様なもの、なんだか"恐い"ものだと思うからです。

 だから、たとえば、選挙に行かないことは大人として無責任である、そう言い切ることが私はできません。私の周りの友人にも選挙に行かない人はたくさんいますが、その人たちが無責任な大人だとは決して思えないのです。むしろ、私よりもずっと誠実で責任感もある。大人というなら、彼や彼女のほうが、ずっと大人に感じます。

 それでも、そんなややこしい"政治"というものに相変わらず関心を持ち続けてしまうのはどうしてなのか、自分自身もよくわかりません。


 私は小学生だった頃、夏休みが大好きでした。一学期の終業式が終わった後の帰り道も大好きでした。今日で夏休みが終わる。けれど、明日からまた学校が始まるという"8月31日"という特別な日付も大好きでした。
 私には小学校3年生になる息子がいますが、今年の夏休みからは8月31日よりも前に夏休みが終わるのだそうです。本当にわかってないな、と個人的には思いますが、子どもたちにとっては夏休みが少なくなることへの不満が多少あるだけで、そのことがなにか感傷的になるような出来事ではないようです。(私にとっては十分感傷的になる出来事ですが)。

 ただ、そんなふうにして誰かのつくった"社会"に私は所属していて、私にはどうすることもできない不自由に思えるルールの中で生き、その中にたのしいことを見つけることが好きな"社会の一員"なのだと近頃よく思います。

 本当なら誰かが決めたルールの中で生きるのではなく、自分の思いに素直に従って生きていたい。そんなふうにも思うけれど、私は大好きなクリスマスソングもお正月に聴くとやっぱり感動はしないのです。(よくわかりませんね)。

 なんだかおもしろくない、つまらないことのようにも思うけれど、私の、私たちの生きている社会は、それでも決して小さくはない範囲で政治がつくっていると思うから。そして、自分もその一員だと思うから。当たり前のことですが、そんなことが、政治に関心を持ち続けている理由のような気がします。


 もうまもなく、2019年7月21日(日)には参議院選挙があります。

 私が感じている今の世界、なんとなくではあるけれど、こうなふうになればいいのにと思う社会は、誰かの見ている世界や社会とは違うかもしれません。仮に私がこうなればいいなと思う社会になることが、たのしい社会につながるのかどうかも確信は持てませんし、そもそも人に自慢できるほどの知識があるわけでもない自分の理想を掲げること自体なんだか傲慢なことのようにも思えます。そして、すべての人にとってたのしい、よい社会、そんなものはそもそもないような気もします。いつも矛盾を抱えているのがあらゆる物事の"本当"のような気がします。

 ただ、それでも、選挙では、私のような"違和感"を感じていても、それを乗り超えて名乗り出てくれている誰かに、自分なりの意見を託して一票を投じたいと思います。その結果、変わってほしいなと思っています。変わった結果、もし間違っているのだとしたら、何が間違っていたのかを知りたいと心の底から思います。

 かなしいこと、さみしいこと、くやしいこと、そんな感情や出来事は、できることなら少ないほうがいいけれど、なくなってほしいとも思いません。それはきっと、とてもつまらないことだと思うから。ただ、かなしんでいる人の目の前で、さみしそうにしている人の目の前で、くやしがっている人の目の前で、無視をしたり、高笑いしたりするような社会は、やっぱり違うと思っています。

 21日(日)、私は息子とその友達を連れて映画『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』を観に行く約束をしましたので、期日前投票へ行く予定です。

 小さい声ではあるけれど、今、こういうことをどうしても書いておきたかったのです。なんだか、すみません。

 まもなく季節もバトンを渡しそうです。たのしい夏になるといいなあ。

atelier naruse 代表 早川卓馬