第十二回 「優しいだんなはん」考。

 個展のために大阪へ出向いている園子さん。一方、猫まみれに感じる狭い和室で久しぶりの休日を謳歌する私。謳歌するといっても、座布団3枚をたてに並べてだらだらと寝ているだけです。

そんな折、園子さんから電話がかかってきたとして、みなさまならどうするでしょう。

会社設立。園子は身重。naruseはもう、園子だけのnaruseじゃない。そして、園子は働き、社長はごろ寝。そんな折の園子からの電話には、さも今までシャッキリと起きていたかのように「How Do You Do?」などと爽やかな声で出てしまうに違いありません。

 そんなわけで、自責の念に駆られた私は、只今パソコンに向かっている次第です。

 

 さて、それはそうと園子さんが先日書かれた「優しいだんなはん」という表題の文章をみなさまは読まれたでしょうか。大変ありがたいことに、私はあれ以来、周りの方から、特に女性の方から「優しいんですね」というお褒めの言葉を頂戴しています。ありがとうございます。

 しかし、女性に受けの良い紳士的な振る舞いは、時に男性陣からの反感を買うおそれがあるほか、私自身も「悪ぶりたい」、「豪快な男でありたい」という男性特有の幼児性を未だしっかりと持っているのです。ですから、一概には喜べないのですね。身重の奥さんを尻目に、朝方ベロベロに酔って帰ってくるくらいのことはしたいのです。いや、してたね。昔の俺なら。

 そんなわけで、私は善人などではなく、『悪人』になっていたかもしれないという話を今回は書こうと思います。

 

 時は西暦2000年。当時、学生だった私は、とある映画のオーディションに応募したことがあります。街でスカウトされたわけでも、お姉ちゃんが黙って応募していたわけでもありません。(たしか私に姉はいません)。それは、私が学生時代に自主映画で役者をしていたため。そして、私が所属していたM組のM監督が非常に優秀な人であったため、映画界への登竜門的映画祭「ぴあフィルムフェスティバル」で入選を果たしたことに端を発します。

 

 通称・ぴあフェスは、たかが自主映画の祭典と馬鹿にできたものではなく、会場は東京・有楽町の何某フォーラム。審査員も豪華な顔触れが揃う、自主映画に携わる人にとっては憧れの場です。最終日には審査員、入選者を交えての盛大な立食パーティーなども開かれるのですが、私はそこで審査員の一人だったとある映画プロデューサーの方に声を掛けてもらいました。それが、オーディションへのお誘いだったというわけです。

「その映画、一本のギャラは幾らなんだい?」。そう豪快に切り返したい気持ちをグッと抑え、私はペコペコと頭を下げて東京を後にしました。

 

 ただ、結論から言えば、私はこのオーディションに間に合わなかった。

少しでも良いプロフィール写真を撮って送りたい。だったら少しでも体をしぼろうと近所にあった母校のプールへ夜中に忍び込んだ結果、体中に湿疹が出来てしまったのです。夜中のプールは塩素がきついらしいですね。豪快だった私らしいエピソードです。そして、湿疹は数日で治まったものの、それから写真を撮り、プロフィールを添えて送った頃には応募は締め切られていました。

 応募が締め切られていた事実は、いつまでたっても返事のない事務局へ直接問い合わせて聞いたのですが、そのオーディションが何の映画だったのかもその時にはじめて知ります。

 その映画の名前は『ウォーターボーイズ』。

「ふん。どうせ、B級映画に違いないさ」。そう豪快に笑い飛ばした私を笑い飛ばすかのように、同映画が大ヒットしたことは言うまでもありません。

そうです。私は妻夫木聡になりそこねたのです。

しかし、みなさま。映画公開前、もっと言えば映画のオーディション前に。ウォーターボーイズならぬウォーターボーイを、妻夫木よりも、玉木よりも先に、私は兵庫県・西宮の地で既に実行していたことになります。私という男は、なんという豪快な男なのでしょう。

 

 ちなみに、その時の「ぴあフィルムフェスティバル」。下馬評の高かった私たちの作品は、あっけなく無冠に終わります。それは、とある監督の作品がほとんどといっていいほど賞を総なめにしてしまったためでした。

 その監督の名前は『李相日』。

 妻夫木聡主演『悪人』の監督です。

 

 みなさま、どうですか。僕は『悪人』になっていたかもしれないのです。

 

 この、「逃がした魚は大きい」をこれほどまでに具体的に表した出来事を、私は子に、孫に、後世に語り継いでゆくことでしょう。

 

悪夫