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日々 「それぞれの焦点」

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日々

村上春樹 「遠い太鼓」

午前三時五十分の小さな死

 長い小説を書くというのは、僕にとっては非常に特殊な行為であると言っていいと思う。どのような意味あいにおいても、それを日常的な行為と呼ぶことはできない。それは、たとえて言うならば、深い森の中に
ひとりぼっちで入りこんでいくようなものだ。地図も持たず、磁石もなく、食料さえ持たずに。樹木は壁のごとく密生し、巨大な枝が重なりあって空を被い隠す。そこにどのような動物が生息しているかも僕にはわからない。
 だから長い小説を書いているとき、僕はいつも頭のどこかで死について考えている。


親が死ぬというおそれ 死に対するおそれ それをかき消すための絵 生まれる前の世界 
こどものときから そいいうものがあったと 横尾忠則さんはテレビで いっていましたね。
こういうことを 考え続けた人って そういえば 前にもこんなこと自分は言ってましたね。
今回は そういうことについて ちょっと考えてみるのでした。
というのは 自分にはその恐れはなかったようだからです。それはどうしてなかったんだろうってね。
学校で おもらしをしてしまうんじゃないかというおそれは いまなおありますが。それは小学一年生の時に やっちまったからです。オルガンで先生がわたしたちと歌を歌っているとき 「せんせいおしっこ」と言えるような子ではなかったし そのことで頭が一杯だったし それがのこったんでしょうね。そうすると 焦点は そこにいつもあたるわけで 死にはあたらなかったという そういうことじゃないの?
横尾さんは 絵に出すことで 死の恐怖をなんとかしようとしたんですよね。わたしも 一枚だけそのおもらしをしたときの教室でのシーンを描いていますよ。もっと描いていたら どうなのかなと思うわけですけど トラウマみたいなものを他に転写することで アートが生まれ 救われもするのかな。救われていないので なんともいえませんが。

あ 村上さんのトラウマはなんですか なんちゃってね 
だから長い小説を書いているとき、僕はいつも頭のどこかで死について考えている
「死」ということば 出て来た。 


《 2021.09.26 Sun  _  読書の時間 》