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日々 「いつものことを基準にする」

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日々

小さな声で 物音をたてないでと思うと 気がつくことがあります。
ゆうびんやさんとも 小さな声で喋ってみたり 階段で 音がしない所を見つけたり
ふきんのうえに物をおくと 音が気にならないとか 忍びの者は 下駄とか靴を履かずに じかたびのようなものをはいてるよなあとか だって物音で みつかってしまうから とか あかちゃんが 物音ですぐ目をさましてしまうのは 水平に寝てるから 音が聞こえやすいのかなとか

さて
今日は村上春樹さんの「遠い太鼓」ですね。

彼らは都市の情報量に追いつけないか、あるいは追いつこうと必死の努力をしているかである。その真ん中というのがあまり見受けられない。少なくとも僕にはそう感じられる。その点、ローマの悪ガキどもはまあ楽なものである。追いつかなくてはならないものはほとんどないし、しかし面白いことはけっこう沢山あるのだから、その辺のひろばに寝転んで通りをいく人にむかって「おーい、おっさん、元気かあ?」なんていってりゃいいのだから。
 旅に出て、その町を走るのは楽しい。時速十キロ前後というのは風景を見るには理想的な速度だろうと僕は思う。来るまでは速すぎて小さな物を見落としたり、ちょっとした匂いや物音を逃してしまったりする。歩きではいささか時間がかかりすぎる。それぞれの町にはそれぞれの空気があり、それぞれの走り心地がある。いろんな人がいろんな反応をする。道の曲がり具合、足音の響き方、歩道の幅、ゴミの出し方、それぞれに全部違う。ほんとうに面白いくらい違うのだ。僕はそういう町の表情を眺めながらのんびりと走るのが好きだ。フル・マラソンを走るのも面白いけれど、こういうのも悪くない。僕も生きているし、みんなも生きているんだという実感がある。そういう実感というのは、往々にして見失われがちなものだ。
 ある種の人々が知らない土地にいくと必ず大衆酒場に行くように、またある種の人々が知らない土地に行くと必ず女と寝るように、僕は知らない土地に行くと必ず走る。『走りごこち」という基準によって、はじめて理解できるものも世の中にはあるのだ。

なるほどなあ いつものジョギングで走ると 「走りごこち」という基準で、初めて理解できるものもある こういう風に書いてありますね。。これは同じことかよくわからないのですが 自分が夫とイギリスに行った時 けっこう分厚いノートをもって行ったんです。それは日々のことを いつも日頃から書いているノートで イギリスという外国でもその続きを書きました。バルでおじさんがいて 写真を撮らせてもらえないかというと ノーと言われてしまったんです。そのときこのノートを出して 自分の母の写真がのっているページをみせたんです。するとおじさんは おまえのおっかさんか?みたいにいわれて はいそうなんですと言いました。すると急に かすかに笑って 写真も撮らせてくれたんです。ひごろやっていることを基準にしてなにかをしてみると 通じたりするし そうなんだとわかったりするものだなあと その時思ったんです。 
《 2021.09.17 Fri  _  読書の時間 》