日々
きょうもあまぐもにおおわれていますが わたしのこころは 少しずつ晴れてきました。
家族の一人が 「げんきになるぞー」とこぶしをふりあげるのと くるしそうにこぶしをにぎりしめるのと
同じこぶしでも こぶしのまわりのいろが ちがうというか。ここのところ そうやって家族が 「さんさんななびょうし」だとか 拍手をするとか 自然とそういうふうになってくるんです。つまりはそれほど
苦しかったということなんですが。
なんか少しずつ あかりが見えて来るんですね 不思議なことに。
どんな家やねん ということなんですが
さて きょうはトールせんせいの「さとりをひらくと・・・」でしたね。こんなときだからこそでしたよね。
「手放すこと」の境地に達していれば、行動をとるべき時には、思考に基づいてリアクションすることはありません。かわりに、「在る」意識に基づいて対応するのです。「手放すこと」の境地に在る人は、非暴力主義を含め、どのような観念にもしばられていません。その人がどんな行動に出るか、誰も予想すらできないのです。
エゴは抵抗することが、強さの証だと信じています。ところが抵抗こそが、わたしたちを、唯一のパワーの源である「大いなる存在」から切り離してしまう。というのが、真実なのです。抵抗は弱さです。それは、強さという仮面をかぶった恐れにほかなりません。エゴは「大いなる存在」のパワー、純粋さ、偽りのない姿を、弱さとみなしているのです。皮肉なことに、エゴが強さとみなしているものが、弱さなのです。そのため、エゴは持続的に抵抗し、真のパワーである「大いなる存在」を「弱さ」とみなして、それをおおいかくそうと、「にせの自分」を演じるのです。
「手放すこと」をしないかぎり、自分でも気づかないうちに、「ニセの自分」を演じるゲームが、人との交流の大部分を占めることになります。「手放すこと」をしたなら、「ニセの自分」の仮面や、エゴを防衛する必要はなくなります。つまり、極めて「シンプル」な人間になって、より「本物」に近づくのです。
すると、エゴはきっとこんな風に抗議するでしょう。「『にせの自分』をやめるとは、なんて命知らずな!おまえは、きっと傷つくことになるぞ」。エゴはこの事実を知らないからです。「手放すこと」によってのみ、人は「裸」になり、「傷つきやすく」なります。しかし、そうしてはじめて、「ほんとうの自分」がカラを破って姿を現わし、「本当の自分」は、けっして「傷つかない」事を発見するのです。
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「手放すこと」によってのみ、人は「裸」になり、「傷つきやすく」なります。しかしそうしてはじめて、「本当の自分」がカラを破って姿を現し、「本当の自分」は、けっして「傷つかない」事を発見するのです。