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日々 「セミ笛」

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日々

こおろぎのこえで いっぱいです。草むらに入ると ひょこひょことこおろぎがでてきます。いちおう人間の足も こおろぎより大きいですからね あぶないとおもったんかも。ここはセミも たまにしかやってこないんです。せみって一羽とかいっぴきとか でも 羽がついてるから一羽に。
じーじーみんみんなくのはおすで 「おーいここにいるぞー」とさけんでいるみたいですよ。
だから 家のドングリの木に一羽で きまぐれにやってきて みーんみーんないたぶんには めすもよっぽどのことがないかぎり やってこないんじゃないかなあ。
娘のところのおすのせみが ねこにつかまって その名前はイチローって言うんですけど みーんみーんと猫の口もとでなき続けたという話 しましたっけ? セミ笛ですわねえ。なんの話でしたっけ?

こんどは「さとりをひらくと・・」トールさんですね。ちょうどこの条件にぴったりのことがやってきてるんですが。(なにごとや)
問い 「手放すこと」は、暴力に対して無抵抗で応ずるといった具合に、物理的な面でも実践するものなんですか?それとも心の状態に限られているんですか?
答え 内面の状態だけに、気を配ればいいんです。なにをおいても、それが一番大切です。内面を整えれば、外的な行動や人間関係なども、自ずと変化するからです。

「手放すこと」をすれば、人間関係は、深いレベルで変わってきます。「すでにそうであるもの」を受けいれられない人は、誰をもありのままに受け入れていない、ということを意味します。つまり、人に対して判断を下し、批判し、レッテルを貼り、拒絶するか、自分の思いどおりにその人を変えようとしてしまいます。
 また、「いま」を、「目的達成のための踏み台」とみなしていると、自分が出会う人たちをも、目的達成のための踏み台にしてしまいます。当然の結果として、人間関係、つきつめると人間そのものが、その人にとって,あまり重要でなくなります。極端な場合には、まったく意味のないものになってしまうこともあるでしょう。物的な利益にしても、権力でも、身体的な快楽やエゴの欲求を満たすことでも、人からなにを獲得できるかが、その人の細大の関心事になります。

 人間関係において「手放すこと」を、具体的にどのように実践すればいいか、例を挙げて説明しましょう。たとえば、パートナーなどの身近な人と、もめ事の状態にあるとします。そんな時はまず、自分の言い分が攻撃された時に、いかに自分が防衛的になるか、または相手の言い分に対して、いかに自分が攻撃的になるかを観察するのです。自分が自説に固執している、という事実を知りましょう。自分は正しく、相手は間違いでなければならないという考えの原動力となっている、感情、思考のエネルギーなのです。エゴ的思考のエネルギーなのです。エゴ的思考の存在をきちんと認識することで、また十分に感じることで、それを意識に変容してしまえるのです。


存在をきちんと認識する なるほど
また十分に感じる なるほど
それを意識に変容してしまえる できるかなあ
《 2021.08.28 Sat  _  読書の時間 》