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日々 「読書の話」

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日々

周期的に 村上春樹さんのエッセイを読んでいる。この人の書かれていることのどこがいいかとか だいぶ考えてみるけど ぴったりとした言葉が見当たらない。ただ すこしずつ いつものことだけど読んでいると その文体が私に移って 空気感染ですけれども 同じような文体になっているような気がするんですけど。どうでしょう。今日は「やがて哀しき外国語」のなかの「運動靴をはいて床屋に行こう」です。読んでみますね。

 僕はもうとてもとても「男の子」と呼ばれるような年齢ではないけれど、それでも「男の子」という言葉には、いまだに不思議に心引かれるものがある。その言葉の響きや、そこにこめられた心持ちのようなものが、わりに好きだ。世の中には「いやあ、あいつはオトコだね」と言われるような人もいるわけだが、僕はどちらかといえば「オトコ」というイメージよりは「男の子」というイメージの方が、まだ自分自身に近しいような気がすることがある。こんなことを言うと、だからお前は未成熟で社会化してなくて幼児的なんだと言われそうだけれど、必ずしもそういうものでもないだろうと僕は思う。むしろ現実的年齢とはあまりーもちろんまったくというわけではないがー関係なく成立しているある種のものの見方、価値観の問題なのではあるまいか。社会的にちゃんと成熟していながら、それと同時にある部分では「男の子」でありつづけられる人だってきっといるはずだ。
「じゃあ男の子とはいったいどういうものなのか」ということになるわけだが、こういうのはだいたいが心情的、感覚的なものだから、ことばできっちり定義することはむずかしい。やってやれなくはないけれど、かなりまわりくどいものになってしまいそうである。しかしそれとは別に「お前にとって<男の子>のイメージとは具体的にどういうものであるか」という風に質問していただけるなら、僕の開頭は簡潔かつ明瞭なものになる。箇条書きにすると、(1)運動靴を履いて (2)つきに一度(美容室ではなく)床屋に行って (3)いちいち言い訳をしない
 これが僕にとっての<男の子>のイメージである。感嘆でしょう。これらの三つの条件を満たす人がいれば、年齢には関係なく、少なくとも僕にとってはこの人は<男の子>なのである。そして僕自身もかなり昔から(どれくらい昔からかは思い出せないけれど)、この三つの条件を何とか満たしつつ生きたいものだと思ってやってきた。
 しかし提示された条件が簡潔で明瞭であるからそれを実行することが感嘆かというと、もちろんそういうものではない。たった三つのシンプルな項目だって、長時間に渡ってそれを営々と維持し続けるとなると、やはりそれなりの苦労というものがあるし、その結果そこにはある種の哲学のようなものが生じることになる。いや、哲学という表現はいささか大仰かもしれない。経験的視座という方が近いかもしれない。持続する苦労の中からはーその苦労がどれほどの観客的必然性を持っているかということとはほとんど関係なくー往々にしてそういうものが生み出されるのだ。

これを打ってみて自分は 「この話長い」と思わず口に出して言ってしまうのでした。
「こんなに簡単でだけど長い文章は打ったことがない」とさらに出て来ます。こんな失礼なことを書くとすぐに自ら反動が出て来るのです。 どうもそれには自分に関係していることがあるんじゃないかと 考えてみるのです。
たとえば「オトコ」と「男の子」の話の途中で 「男の子」に該当するような息子がいるなあと
「だからお前は未成熟で社会化してなくて幼児的なんだ」のところで。
しかし<男の子>の具体的なイメージはというと(1)運動靴を履いて (2)月に一度(美容室ではなく)床屋に行って(3)いちいち言い訳をしない
ここに来ると似てるが そうじゃないかも いちいち言い訳をしないは どうかなあとか
こんなことをやってるから 自分はさらに長話を助長してしまっていることになるのです。で それらは世間話並みで そのくせ行きつ戻りつが どういうわけかしゃれているというか 欧米かのテイストというか
だから つい? もうどっち付かずの話しにいってしまうのです。


村上春樹さんにもどりますが この再び読み始める山は どのくらいの周期で来るのか、同じのを何度読んでいるのか 村上春樹さんのファンと言えるのかどうか

写真はオシャレをした卵先生です




《 2021.08.13 Fri  _  日記(日々) 》