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日々 「躁鬱大学」

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日々 「パンプキン」

躁鬱大学(坂口恭平)新潮社を読んでいます。
これを読もうとしたのは 自分のためというようなことではなかったんです。
それに 躁鬱という文字はなんかしんどい感じがしたからです
この本の「その3」というところに(「居心地悪いなあ」と感じたらすぐ立ち去る) というところがありました
このとき「居心地の悪いところってあるんだなあ」と自分はほっとしたのです。それは人に馴染まない自分のせいだからとか だから社交的になる努力をしなくてはと 若い頃から考えて 「いこごちをよくすること」をわがままかなにかのように とらえていましたね。
で子育てでも始めのうちは こどもの自由なふるまいいを 「わがまま」としてきびしくしていましたね。
さて 若い頃は 独身で下(あたりまえですね) 
親元を出たのだからと 大学時代から変ってみようと思いましたね。
大学は寮生活だったので4人一部屋です。色々な人の中で生活をするのです。かなり窮屈でしたが カーテンを引いたベッドが一人で何か出来るところだったり もしかして見つけたのかもそういうところを。
基本的には平和主義だから(事なかれ主義という見方もありましたが)かわいがられもしました。
でも本当は いろいろなことにまどわされずに 好きなことだけをやっていたいな(わがままだとも言う見方も)とも思うのでした。
一人で気兼ねなくゆっくり買い物をするのも好きでした。人と一緒に行くと きゅうくつでしんどいからです。
その4年間で自分はかなり心が広くなったと 自信がついたのはこの寮生活のおかげと思っていたのです。その後就職し「ぽかミス」をよくしましたし 寮の部屋で友達と食事をしたり まるっきり付合いが悪いというわけでもなく でもやって来る人は気兼ねを忘れているような人でしたね(笑い) 
やっぱり一人でイラストを描いたり日記を書いたりしているとホッとするのです。
こういうなかで 私も女性ですから デイトしたりしてみるのですが もう窮屈なんです。とても続かないと思いましたし頑張ってみてもうまく行かなかったり 緊張してたり。 
こうしてふりかえってみますと 自分が見えて来るんです。それは躁鬱大学が きっかけとなって自分が見えて来て なるほどと思えるんです。そういうことって ありそうで ないもんです。 
自分は既に72歳ですけれども そういう自分が どうやって窮屈な場面をくふうしてやりすごそうとしているのか 見えて来るのです。 
「かわった人なんですよ」 と夫はいいつつも 「しかし日記の山には 驚きました」などと。夫も「それはおかしいんじゃない?」と言うのも この頃はやめたというかあきらめたようです。
これは いろいろ失敗しつつも やがて自分が充実を感じる事はどういうことなのか どういう場所なのか ながいあいだに わかって来た結果なんだと思います。
生活していれば 「充実して窮屈ではないこと」ばかりというわけにはいきませんね。それでも窮屈な林の中で 自分の充実したことをやってきた これよねと。
で それは躁鬱大学「その3」と同じというわけじゃないんですが(いいましたっけ?)この本にはきっかけの破片がそれも元気になるリズムとともにあるようです。
  


《 2021.07.10 Sat  _  日記(日々) 》