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日々 大阪時代

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『日々』

大阪時代

「今日も20通ぐらいの「フーフー通信」の申し込みがあった」
この通信というのは 夫がサラリーマンをやめる2カ月前からはじめたもので もうその頃には仕事をやめて作家になるつもりだった主人は 修練のつもりで エッセイを書くというものだった。1983年から始まって 2年程続いただろうか。最初は月に2回も出していた。私はフーフーの片方なので これはやはりかなりの修練だった。私は自分の周辺で起きたことを つまり日常生活を書いた。読者は増え 夫に添削をしてもらいながら それなりのいいエッセイが書けたと思う。それの元になるのがこうしてファイルに書き続けた日記だと思う。

夫はきのう 「仕事を辞めて 絵画塾を週一回でもひらいて いっちょ生計をたててみようかな」と言った。何度目かのサラリーマンをやめたい発言。そのたびに私は一抹の不安をのこしながらも、「まあ あんたがそう思うんなら 気の進まない仕事をしてるより いいんじゃないすか」と言ったりしていた。
テレビで夕張炭坑離職者のドキュメンタリーをみる。職を失うということは大変なことだ。借金で追いまくられたり、夜逃げをしたり。われわれも 夫婦だけじゃないので、子供4人のことも考えなきゃならない。一方、なんとかなるさの気持もある。1983年34歳

2012年 63歳になった私は こういうことを書いている
夫はあの頃の話を人にするとき「女房はね、私が仕事を辞めると少しは小さな子供のめんどうをみてもらえると考えて さほどやめるなとはいいませんでしたね」と笑いながら言った。私のことを 人には「よくオッケーしましたね。不安はなかったんですか」と聞かれたりした。
(63歳と言えば 週刊誌の表紙絵の仕事もあり 安定している。だから思い出して書いている)
「実はね、私達には貧乏生活の経験がなかったので、気楽なことを言ってたんだと思いますよ」と。
ことはすんでしまえば なんとでもいえるのかもしれない。
夫は「飛びますよー、やめますよー」と宣言してから(それは3月が多かった)何年かして本当に辞めた。
夫は前もってこういうことを言った
「このサラリーマンを辞めたからといって 人に恥じるようなことは何にもないんやから 新聞配達をしたり いろんなことをしても胸をはって生きていこうと思てね」
その後 夫はエッセイを書き そういう生活ぶりとか フーフー通信のことなど 新聞で取り上げてもらい
イラストの仕事もカットを書くのも似顔絵描きもして 子供たちには就学援助を受けたりして 何とか食べさせてもらった。野菜や果物を安くわけてもらい 古着をもらったりおもちゃを粗大ゴミの日に拾って来たり(これは私のたのしみだった)しゅうとさんや母も助けてくれた。それでも一カ月先の見通しも立たない日々もあった。
フーフー通信で 私達はその生活ぶりを書いた。夫も私も長いエッセイを書いた。なんせ夫はさっkになろうというのだから力が入る。だからこの文章修練は二人とも上達していったと思う。今は気楽な日記だから あれほどのことは書けない。
後に「フーフー通信 幸福工房(夫の本)「ほんの主婦ですが(妻の本)」を出版した(素人社1987)
貧乏生活というのは じっとしていると いてもたってもいられないものだと思う。何かしていそがしくしていること。それを人に見てもらうこと。子育てで忙しいこと、など、
「貧乏やからなんとかせなあかんのやけど、それにかまってられへんほど忙しいて」ぐらいになると...
まそんなして 後になってい言ってみるんだけど。

2012年今
私は夫にあのサラリーマンを辞めた年だとか フーフー通信を書き始めたとしだとか それが何年続いたのかだとか 聞いてみた。こういう詳しいことは日記に書かれていない。
夫は最近物忘れが多いと言う。しかし こんなことを聞くと その出版した本を引っぱり出して来たりして 教えてくれる(自分で調べんかい)。日記はこのように継ぎ足している。そして 今も 何とかこの日記をものにしたいと思うこともある。人の役に立つかもしれないと思ったりして。 夫に読んでもらう。
そんなとき、娘のエッセイまんが独身編などがまた出て来るのよ。 うまいなあ これには普遍性と絵のうまさがある。で やっぱりやめとこう。 ホームページに出し続けるのでよしとしょうと 納得する。 あの頃もそうだったけど 自分はなんとかして夫を助けて 子供を育てなあかんとがんばろうとしていた。それが今でもあり いきごみだけがたまに出て来る。ばあさんになった今 ゆっくり 日記を読み直す これやな に行き着くのだけど。

《 2021.06.25 Fri  _  日記(日々) 》