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『現代に生きる サマセット・モーム』

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『現代に生きる サマセット・モーム』

 話はここで本題の出発点に戻してみよう。『月と六ペンス』は何についての物語なのか。(清水)
(忘れていましたね)
人間なるものの不可解さや矛盾に感心の目を向けていたモームは、ロバート・コルダーも指摘しているように、超俗的な生き方に惹かれていたと同時に、世俗臭にみちた生き方にも棄て切れぬ興味を抱いていたようである。とりわけ後者の、すなわち「六ペンス」の世界の住人たちの描き方に二通りのニュアンスが込められていることに注意したい。たとえば、ダーク・ストルーヴは「月」的生き方の価値を十分に認識しながら、最終的には「六ペンス」の小市民的幸福の世界を自分の帰る場所と決めてしまう。一方、ストリックランド夫人そのほかの登場人物の何人かは、「月」の真価を認めようとせずに、偽善的中流階級の市民の暮らしに埋没している。いうなれば、「月」と「六ペンス」の間を去来する語り手の語りの中に、作者モームの心の揺れが導入されている、とみることは出来ないであろうか。モームは実は、この揺れ動く感情に支配されているために、このようなアンビヴァレンスを作品の中で必然的に重視していることになるのだ。
その点でモームが、ストリックランドの世界を一本調子で描かずに、彼を終始からめとろうとする俗世間、とりわけ家族を並行させながら同時的に描いたことは、作品に迫真性をもたらす効果があったと思う。
 また、主人公夫妻の関係に、通常はあまり意識にのぼらない夫婦生活における虚構とか幻想を意識する読者もいることであろう。モームはあるいは、こうした夫婦の関係を通して、この物語に彼個人の抱く夫婦生活への幻滅を投影したのかもしれない。勿論作者モームが第一に描きたかったことは、平凡な生活をおくっていて突如理想に取り憑かれてしまった男の人生であろう。しかしモームは、同じように芸術を志す人間として、この天才画家の生き方を理想とはするが、それがあくまで願望の域にとどまざるを得ない、とわれわれに思わせる時がある。たとえば、未熟な青年作家だった頃の「私」がパリでストリックランドを探し出して詰問する挿話をここで取り上げてみたい。

「だが、いいですか、もしみんなが、あなたのような真似をするとしたら、この世の中はどうなりますか?」「これはまた馬鹿な話だねえ。みんなが僕の真似をしたがるなんて、そんなことがあるもんか。まず百人がとこ、九十九人は、平凡なことで満足しているんだ」
 
 こうしたストリックランドの素っ気ない返答の中に、はっきりとモームの捉えた人生の真実の一面が浮びあがってくる。モームは、自己なならびに語り手の願望でもあるような「月」的生き方への共感におとらないくらいに、「六ペンス」に象徴される人物たちの、ストリックランド的生き方への様々な反応を鮮明に描き出している。ストリックランド夫人、その子供、親戚、ローズ・ウォータフォード、さらにはダーク・ストルーヴもその範疇に入る「六ペンス」の世界の住人たちに多くの読者が自己の姿を見出すとすれば、それこそが『月と六ペンス』という小説のリアリティによるものであろう。


ここで 清水明さんの『月と六ペンス』の章は 終わるのです。
どこかの映画館で 清水さんの講演を聞き終わった気分で、おもわずパチパチと拍手しているところです。
この『現代に生きる サマセット・モーム』の『月と六ペンス』の章で 私はこの小説は 著者の思い考え方がそこにながれているのだと 気づかされました。本の読み方の基本の一つですね。

「そしていろいろな登場人物は 著者が色々な人物をみせるために配置しているのですね。ストリックランド的生き方への共感におとらないくらいに、「六ペンス」に象徴される人物たちの、ストリックランド的生き方への様々な反応を鮮明に描き出している」これが登場人物の配置ですね。私はこういうことを考えずに
一人一人の人物を見ていたような気がします。
著者が描きたかったことを知るには 最後までその小説に黙ってのってみるということでしょうかね。

しかし「「六ペンス」野世界の住民たちに多くの読者が自己の姿を見出すとすれば、それこそが『月と六ペンス』という小説のリアリティによるものであろう。と清水さんはしめくくっていて 正に自分もその一人だったと思うのでした。

お客さん これで『月と六ペンス』と『現代に生きる サマセット・モーム』終わります ありがとうございました
「月」と「六ペンス」に揺れ動く モームさんも揺れ動いていたんですね
《 2021.06.23 Wed  _  これくしょん 》