who am ?I

PAGE TOP

  • 06
  • 18

『現代に生きる サマセット・モーム』

スキャン4866.jpeg
『現代にいきるサマセット・モーム』

ゴーギャンの画集を見ていきますと ゴーギャンとゴッホののことが書いてあります。
あ『月と六ペンス』ではストリックランドが死んでから 有名になり とんでもない価値が出て行ったことが書いてありますが そのきっかけはおそらく 画商や評論家がその価値を見つけたりしたのだろうと想像するわけなんですが そのくわしいいきさつは ゴッホにも関係しているのではないかと。しかしそういうことは『月と六ペンス』には出て来ません。

このゴーギャンの絵は 
「<カリブの女>を描いている時期は、ゴッホの死の時期であり、が中背景に描かれているひまわりはゴッホとの関連が強く、上述の手紙の中にあるゴッホの死に対しての言及の内容からも、生と紙、復活、永遠の輪廻の一部としての残酷な死に対抗するそうした生死観をゴーギャンが再認識していることがわかるとしている。


さて きのうにひき続き ストリックランドの「女性観」です。
 まず、女と家出をしたと言う噂を聞いたときに「私」は、「ストリックランドといえば、四◯のはずだ。この年になって、いまさら恋愛事件を起こすなどというのは、むしろ不快な感じさえした。若気の思い上がった気持ちから、僕は、せいぜい三五歳をもって、男が恋愛をして物笑いにならないですむ最後の限界だと、決め込んでいた」という反応をしている。現在の「私」がここでは、過去の「私」の単純な恋愛観を風刺している。『月と六ペンス』の特徴のひとつは、「語り手が道徳を大仰にふりかざした独白をすることである。こうした警句を作中におり込みながら悦に入っている、皮肉屋であり、諷刺家であるモームの姿が髣髴としてくるようだ。
 また、この小説の狙いで面白いのは、個々の事実を累積し、ある程度作品の雰囲気に読者を慣れさせて筋を進めるというよりも、いきなり人間関係の葛藤を含めた物語に入る、ということだ。たとえば、家出前のチャールズ・ストリックランドの心境やエイミーとの夫婦関係の内面には具体的に触れられていないことを想起しておきたい。
 これまで、「常人と異なった人間だなどという印象は、少しも受けなかった」と述べられるチャールズ・ストリックランドは夫人とちがって、文学や芸術などと全く無縁で平凡な生き方をしてきたようにみえた。だが彼の家出の原因は果たして女ではなく、絵を画くことであった。夫人に依頼されてパリまでチャールズに会いに行って来た「私」は、ロンドンのストリックランド家でそのことを報告すると、彼女は、
「誰か女にでも夢中になって、一緒に逃げたというのなら、私、かえって許せると思うわ。そんなのなら、あたり前のことなんですもの。私、決して悪くなど言わないわ。誘惑に負けたんだと、ただそう思うだけだわ。男って本当に弱いものだし、女のほうは、それはあつかましいんですもの。でも、今度のはちがうわ。本当に憎むわ。許したりなんぞするものですか」と息巻くのだ。この夫人野言葉に圧倒されて、「私」派彼女に向って次のようなセリフを吐く。

「....女のために奥さまを棄てたというのなら許せるが、なにかある観念のために、そうしたというのは許せないと。、つまり、前の場合ならば、奥さまの方にも打つ手はあるが、もし後の場合ならば、なんとも手のうちようがないという」


このモームさんの女性観なんですけど 女性の一人としましては そんなもんかなあと思います。
「別の女と駆け落ちするなんて なんてひどい くやしいわ! だけど 絵の勉強のために家出したの そう それはがんばったわね」とこうくるんじゃないかと思うんですけどね。あさいですか。

私の思い違いがありました。
「どういうわけか四◯で、この年になって、いまさら恋愛事件を起こすなどというのは、むしろ不快な感じさえした。若気の思い上がった気持から、僕は、せいぜい三五歳をもって、男が恋愛をして物笑いにならないですむ最後の限界だと、決めこんでいた」
ここです。私はこれは清水明さんの言葉だと思っていたのです。「明さんそれは古いですね だって今頃の40なんて そんな話よくあるんじゃないですか。などと。
古いからといって よくないですよ とつぶやきながらね」
個々の箇所で わかりました。「私」の若い頃のことを言っているんですね。しかしかん違いは迷惑ですね、すみません。

しかし私は女性の読者の一人ではないですか?自分のことにひきつけて よく考えますから。


《 2021.06.18 Fri  _  読書の時間 》