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『現代にいきる サマセット・モーム』

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『現代に生きる サマセット・モーム』 清水明著

ストリックランドの「女性観」

 実は、『月と六ペンス』の本質は、作者が「月」と「六ペンス」を単純に対比しようとしたところにあるではない。天才画家が周囲の無理解な俗物たちとの関係を断って、すなわち人間的な交際を断ち切ることによって一途に芸術に精進する、という作品の表面にあらわれたロマンチックな要素にのみ注目するのは、作品の本質を見誤ることになりかねない。
 もしも、モームがタヒチ島での主人公の死を描いた所で物語を打ち切っていたならば、凄絶な芸術家魂の最後がロマンチックな彩りで飾られて、それなりの感銘とカタルシスを我々は与えられたであろう。だが小説はそこで終わっていなかった。南太平洋から戻った語り手の「私」は、すぐにロンドンにいるストリックランド未亡人のエイミー及び成人した息子と娘に十数年ぶりかで会いに行くのである。既にその生前には考えられなかった程の天才画家としてのストリックランドの名声はあまねく広がっており、その天才の未亡人としてのエイミーは、昔の夫の怨恨をすっかり忘れた様子をみせて、遠雷の客である「私」をもてなすのであった。ただそこには、近々ストリックランドの伝記を書こうとしているアメリカ人の批評家も居合わせている。


もしも、モームがタヒチ島での主人公の死を描いたところで打ち切っていたならば、凄絶な芸術家魂の最後はロマンチックに彩られて,それなりの感銘とカタルシスをわれわれは与えられたであろう

だが小説はそこで終わっていなかった。

そこで終わった方がよかったという意見もあるでしょうが ここからはゴーギャンの年譜にもどるのですが
彼は家を出て以来 家族のことを全く忘れたわけではなかったのです。離れているうちに 別の女に出会ったり だまされもしたり 子供をもうけたりもして 月日が経ったのでしょう。
「私」がロンドンの家族に会いに行ったのは よかったのです。そして恨み言の一つでもいわせることで この小説はただストリックランドの芸術家としての一面をたたえるだけでは終わらなかったと思います。壁に今や有名になったストリックランドの作品のコピーがかけてあるということも 人間ならエイミーに限らず そういうことをしたかもしれない。現地で生ませた子供がその作品に出ていても 彼女は知らないのでしょうから。子供達は彼女が立派に育て上げた 彼女の思う立派ですけど。現代の小説なら これのほうがあってるような気がします。
清水明さんと 対談しているようです。まさに『現代に生きる サマセット・モーム』ではありませんか?


《 2021.06.16 Wed  _  読書の時間 》