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ゴーギャンの年譜

スキャン4862.jpeg『ゴーギャンの年譜』
1874 26歳
シェフネッケルの誘いで、画塾アカデミー・コラロッシに通いはじめる。 長男エミール誕生
28歳 初めてサロンに出品(油彩の風景画)

(結婚して子供も生まれ 絵も描いていた)

29歳 脂師の彫刻家ブイヨに彫刻を習いはじめる。娘アリーヌ誕生

(年子で子育ても大変や。女中さんいたのかなあ)

31歳 カミーユ・ピサロやエドガー・ドガと会う。第4回印象画展に招かれ出品(彫刻)
同時にゴーギャン所蔵のピサロの油絵三点をも貸し出す

(ゴーギャンはピサロの絵を買っていたわけ?)(この頃はいいくらしだったのかも パリ株式取引所に勤めていたしね)
次男クロヴィス・アンリ誕生

(ええ13年のうちに3人の子供!忙しそうだけど奥さんは特に。ゴーギャンは妻子を養うために仕事は辞められないなあ 絵や彫刻にも興味が出るけれどもさ)

1880年
32歳 アルマン・ギョーマンと親交を結ぶ。進行は1880年代ずっと続く。第6回印象派展に作品10点(絵画7点、大理石彫刻1点)出品

(続いてますなあ)

33歳 第6回印象派展に作品10点を(油絵8点、木彫1点、円形浮彫1点9を出品。<裸婦習作(裁縫するスュザンヌ)>を批評家ユイスマンスが激賞
三男ジャン・ルネ誕生

(ええ!4人目 子供がたてつづけにふえつづけるゴーギャン家)
(批評家に激賞されたんや。自信ついたやろうな)

34歳 第7回印象派展の作品13点(油彩とパステルが12点と息子クロヴィスの胸像彫刻)出品

1883年
35歳 株式取引所をやめ、画家になる。(こんな時期に 大丈夫?)ピサロ一家がポントワーズからオスニーに引っ越し、そこでゴーギャンは3週間過す。

(子供と奥さんから解放されて?だって男の子三人と女の子一人 しかしゴーギャンはこの女の子を可愛がっただろうな)

ピレネー山脈の近くにいるスペインの共和派の人とと接触する。(父親は確か共和派だったよね。影響を受けたやろうな)
四男ポール・ロラン誕生。一家でルーアンに移る

(5人目!)(画家だけでこの一家。 これは広いうちに引っ越したのか貧乏になって小さいうちに引っ越したのか)

36歳 再度スペインの共和派の人々と接触 (何か危険な匂いと秘密めいてる)
妻メットは長女アリーヌと四男ポーラを連れコペンハーゲンの実家に向けてルーアンを離れる。(危険を感じてるのかも)ゴーギャンは残りの子供達を連れコペンハーゲンのメットのもとへ赴き共に住む。

1885
37歳 コペンハーゲンに住む。
ゴーギャンは息子のクロヴィスを連れてパリに戻る。(クロヴィスは次男や。なんか事情がありそうやな)
ロンドンへ旅行、帰路北仏のディエップに滞在。(スケッチブック持参か それとも)

38歳 第8回(最終回)印象派展に絵画19点と木彫レリーフ1点をフェリックス・ブラックレモンの仲介で陶芸器エルネスト・シャブレに会い、陶磁器の壷を制作し始める。ポン・タヴェンでエミール・ベルナールに会う。
パリに戻る。
画商テオ・ヴァン・ゴッホ!(1853−90年)とその兄ヴィンセント(1853−90)に出会う。

(ひゅーい! ここで38歳のゴーギャンは33歳のゴッホに出会ってる)(次男クロヴィスはどうしてる?母の元に帰されたかな)

(第8回印象派展が最終回だったんや。まだ評判は上々とは行かなかっただろうな。いっぱい出したのにな)

1887
39歳エルネスト・シャブレの下で陶磁器作品制作。シャルル・ラヴァルとともにパナマとマルチニック島に滞在。
(ここらあたりの旅行が パリだとかヨーロッパの空気と違って来てるような気がするんだけど。つまりもう助走はしてたんや)
フランスに戻る。エミール・シェフネッケルの下に寄宿。
(一定の所には住んでないよね)
ヴィンセントとテオン兄弟に再会
(ここらあたりで 3人は親しくなり始めているね)
生涯の友ジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレーを知る
(生涯の親友 いたんや)

1888
40歳 (いよいよ 40!)(長男が14歳、末っ子が5歳) 
ポン・タヴェンに戻る。エミール・ベルナールも合流。その妹マドレーヌも合流。その妹のマドレーヌも滞在。総合主義を確立。
『説教の後の幻影 ヤコブと天使の格闘』を制作
(制作はつづいている、総合主義ってなんだ?)

10月ー12月アルルのヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「黄色い家」に滞在。12月、ゴッホとのいさかいとその後のゴッホの耳切り事件の後、ゴーギャンはアルルを発ってパリへ戻る。
(ゴッホとの生活は2カ月。ゴーギャンはひどい男だと思っていた私だけど ゴッホのように不安定な天才とシェアするのはむずかしいわな。ゴッホの弟テオも 兄をゴーギャンに托したかったのかもしれないし。テオも忙しかったろうからね。ゴッホは画家仲間と共同生活しながら作品を生み出したいという思いがあったんだけど 実際は むずかしいわな。あれ 私 おっさんみたいになってるわ)(ゴーギャンとゴッホの話は『月と六ペンス』にはない。

1889
41歳
1月、リトグラフ連作(亜鉛版)を制作
ヤコプ・メイエル・ハーンを知る。
ポン=タヴェン滞在。
6−9月 パリ万国博覧会期間中、カフェ・ヴオルピニを会場にした<印象派及び総合派展(ゴーギャンは総合主義)荷参加し、作品17点を出品。ブルターニュの沿岸のポン=タヴェンとル・プルジュの間に滞在し作品制作。10−12月、メイエル・デ・ハーンとともにル・プルジュに滞在。マリー=アンリの宿屋に投宿し、共に食堂を装飾する。
(パリ万国博 このときに日本の浮世絵やジャポニズムを生み出す作品が紹介されたわけ?)

1890
42歳 ル・プルジュを発ちパリに戻る。アルベール・オーリエ、シャルル・モリス、ステファヌ・マラルメ等の象徴派の文学サークルをしばしば訪れる。
(タヒチでも 作ってたよな。ここらあたりで 画文集などに興味を持ち経験するんや)(壁の装飾画もね。こうした経験が タヒチでの壁に絵を描くことにつながるわけで 病身であるとはいえ 特別なことではなかったのかもしれない。壁というものは配意が限られているけれども ひろかったろうし目が悪くなってからも アタに(名前はちがう)教えてもらいながら壁をたどったのかもしれない 空想は広がる)

1891
43歳
タヒチ行きの旅費調達のため ドゥルオ館でゴーギャンの油絵30点の売立てを行い、成功する。
(印象派、総合派の作品は売れたんや。友達もタヒチに発つゴーギャンに協力したのかもしれないね。彼は『月と六ペンス』のストリックランドのように 人付き合いが悪いわけでもなく 親友もいた)
3月7日、コペンハーゲンの家族を訪れる。
(そうか タヒチ行きは彼にとって一大決心やったんや。家出したように書いてあることも たしかに家を出ているけれども 絵の世界で成功して 妻子を呼び寄せるとでも約束したんだろうか。子供達とも別れの挨拶をしたのかも)
パリのカフェ・ヴォルテールにてマルラメ主催のゴーギャンのための歓送会が開かれる。
後戻りはできないわな)

(子供は多いし 子供が一人前になるまで待ってられないと よけいに焦ったのかも)

この年譜だけでも いろんなことが見えて来ます。自分の想像も入っていますが。お客さんはどうですか?このあと私は『現代に生きるサマセットモーム』でストリックランドの女性観の続きを読むことになるのですが。 
「あれ 自分はゴーギャンの年譜を読んでいるのか」という変な気持ちになるのです。というのはストリックランドはゴーギャンではない 小説「月と六ペンス』の中の登場人物なんだな と考え直さなくてはならないような所に今いるのです。だから年譜をまず読んでしまってから清水明さんのストリックランドの女性観に行こうと思います。 





 
《 2021.06.14 Mon  _  読書の時間 》