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モームさん

スキャン4853.jpeg『月と六ペンス』角川書店 昭和33年初版

「ストリックランドからもらった絵は今でも診察室にありますが、御覧になりたいですか?」
「ぜひ」
「ストリックランドからが自分の家の壁全体に描いた風変りな装飾のことが、長いこと頭から離れませんでしたと医師は述懐した。
 私も実はそのことを考えていたのだった。ストリックランドはその壁画の中にはじめて、自分の言わんとすることをすっかり表現しえたのではなかろうか。黙々と仕事をしながらこれが最後のチャンスだと悟っていた彼は、おそらくその絵に人生について悟り得たすべて、又予知できたすべてのことを言いつくしたにちがいない。そして多分そこに於いてはじめて、心のやすらぎを見出したのだろう。彼に取りついた悪魔は遂に追い払われ、準備のために一生苦労し続けたこの仕事の完成と同時に、凡俗を離れた苦悩に満ちた魂に休息が訪れたのだ。彼はよろこんで死に就いた。目的は達成されたのだ。
「主題は何でしたか?」と私がきいた。
「どうもわからないのです。不思議な幻想的なものでした。この世の始まりの夢想図のようでもあるし、アダムやイヴ等のいるエデンの花園のようでもあり、男女の人間の姿の美しさへの讃歌でもあり、崇高で無関心で美しく残酷な自然の女神への賛美でもある。時間と空間の無限さをひしひしと感じさせられます。私が身近に見ている木ーココ椰子、バンヤン樹、ほうおうの木、アボガドなどが、あの男の手によって描かれたのを見て以来、私はそういう木をちがった目で見るようになりました。まるでそれらの木には魂や秘密があって、いつも今にも摑まえられそうでいてそうでいて、永遠に私の手からすりぬけてしまうのです。色彩はごく見なれた色彩ばかりです、そのくせどこかちがっていました。独自の意義を持っています。しかも裸の男女ときたら、地上にいながら、地上から遊離している。彼等の肉体を創った材料であるところの土の要素もいくらか持ってはいるが、それと同時に何か神聖なものも持っているように見える。原始的な本能をむき出しにした人間をそこに見て、なんだかおそろしくなります。それはそこに自分自身の姿も発見するからでしょう」クトラ医師は肩をすくめて微笑した。
「私をお笑いになるでしょう。私は物質主義者です、がさつなでぶですーフオールスタフ(シェイクスピアの劇中の人物)てところでしょうかな?ー抒情味なんて私には似つかわしくありません。道化じみていますな。しかしこれほど深い印象を私に与えた絵は見たこともありません。そう、ローマのシスティーン礼拝堂へ行った時と全く同じ感銘を受けました。あの礼拝堂でも私はあの壁画をかいた人物の偉大さに畏敬の念を覚えました。あれは天才です。途方もなく巨大で圧倒されんばかりです。自分がちっぽけな取るに足らんものに思えました。しかしミケランジェロの偉大さには誰しも予備知識がありますが、文明から遠く隔たった、タラヴァオの上の山の凹みにある土人小屋で、あんなすぐれた絵を見ようとは何の予備知識もありませんでしたからね。それに、ミケランジェロのはまともで健康です。彼の偉大な作品には崇高なものの持つ静けさがあります。しかしストリックランドの方は美しいには美しいが人の心をかき乱す何者かがひそんでいます。
(しかしストリックランドの法は美しいには美しいが人の心をかき乱す何者かがひそんでいます)

それが凪いでるか、私にはわかりませんが、なんとなく落着がなくなるのです。私の受けた印象はちょうど、自分の坐っているとなりの部屋は空っぽだとは知っていながら、何故かしら、何者かがひそんでいるような怖ろしい感じを抱くのと似ていました。そんな馬鹿な、と自分を叱りつけ、神経のせいにすぎないとわかっていながらーそのくせ、そのくせ,・・・少し経つと、打ちかちがたい恐怖に取りつかれ、目に見えない怖ろしさにつかまって手も足も出なくなってしまう。そうです、あの不思議な傑作が消失したと聞いた時、私はそれほどがっかりもしませんでした」
「消失した?」と私は叫んだ。
「ええ、そうですよ、御存知なかったのですか?」
「知るはずがありません。そういえば、この作品のことは誰からも聞いたことがありませんでしたね。それにしても、個人の所有物になっているのだろうと思っていました。今でもストリックランドの絵の確かなリストはない始末ですからね」
「ストリックランドは盲になると、自分の描いた二つの部屋の中に何時間も坐って、視力のない目で自分の作品を眺め、そしておそらく、それまでの一生かかっても見ることのできなかったものを見たことでしょう。アタの話では、あの男は一度も自分の運命については不平もいわなければ、勇気を失ったこともなかったそうです。最後まで心は平静で乱れなかったそうです。しかしアタにこう約束させました。自分を埋葬する時ー埋葬といえば、私が自分で、あの男の墓を掘った話はしましたっけ。土人は誰一人病毒におかされた家へ近寄りたがらないので、アタと私で、三つのパレオを縫い合せその中に縫い込めて、マンゴーの木の下に埋葬しましたーあの男は埋葬したら家に火を放ち、家が地に燃え落ち、棒切れ一つ残らないのを見届けるまでは立ち去るなと、約束させたそうです」
私はしばらく黙っていた、考えていたのだ。それからこう言った、
「では、ストリックランドは最後まで相変わらずだったわけですね」
「あなたはおわかりになりますか?実は私はアタを思い止まらせるのが私の務めだと思いました」
「今のお話のような気持ちを持ってらいしたのに?」
「そうです、これこそ天才の作品だとわかったからです。我々が世の中からこの作品を抹殺してしまう権利はないと思ったからです。しかしアタはどうしても私の言うことをきこうとはしません。約束しましたから、と言うのです。私は後まで残ってそんな野蛮な行いを目撃するのはいやでしたから、アタのしたことは後になって聞いたわけです。
(「ストリックランドは盲になると、自分の描いた二つの部屋の中に何時間も坐って、視力のない目で自分の作品を眺め、そしておそらく、それまで一生かかっても見ることのできなかったものを見たことでしょう」)
(「アタの話では、あの男は一度も自分の運命について不平もいわなければ、勇気を失ったこともなかったそうです。最後まで心は平静で乱れなかったそうです」)

《 2021.06.06 Sun  _  読書の時間 》