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モームさん

スキャン4852.jpeg『月と六ペンス』

 やがて更に二年経ち、或は三年経ったのかもしれない、とにかくタヒチでは気づかぬ間に時はすぎてゆくから、数え続けることはむずかしい。しかし遂にストリックランドが臨終だという伝言がクトラ医師の下に届いた。アタはペパーテへ郵便物を運ぶ馬車を待伏せて、馭者にすぐ医師のところへ行ってくれと懇願した。しかし呼び出しを受けた時医師は出かけていたので、報せを受け取ったのは夕方だった。そんなおそい時刻に出かけるのはできない相談だ。そこで翌日夜が明けるとすぐ医師は出発した。タラヴァオへ到着し、アタの家への七キロの径を歩いた。これがこの径の歩き納めとなったわけだ。径は草木が生い茂り、明らかに何年も未踏のままであったらしい。途を探すのは容易なことではなかった。時には川底をよろめき進み、時にはとげのある灌木の深い茂みの中を押しすすみ、頭上の木から垂れ下がっているすずめ蜂の巣を避けて岩の上によじのぼらなくてはならないことも度々だった。きびしいまでの静けさだ。
 遂に小さな白木の家に辿りついた時はほっと安堵の吐息をもらした。家は今ではひどくうすよごれ、乱雑になっている。しかしここも又同じように耐えがたいほどの静寂に包まれていた。医師は歩みよった。すると日だまりで無心に遊んでいる小さな男の子が医師の近づく気配におどろいて、すばやく逃げ去った。この子にとって見知らぬ者は即ち敵であった。クトラ医師は男の子が木の後からこっそり自分を見守っているのを感じた。入口は広く開けっぱなしになっている。医師は大声で読んで見たが、返事がない。中へ入ってみた。戸を叩いた、それでもなんの返事もなかった。悪臭がむっと鼻をつき、ひどく吐気を催した。ハンカチで鼻を押え、勇を鼓して中へ入った。中は薄暗いし、しかも今まで強い日光になれていた目には、しばらくの間何も見えなかった。やがて医師はぎくっとした。いったい今、自分はどこにいるのかわけがわからなくなってしまった。いきなり魔法の国へ入りこんだような気がする。なんだか大きな原始林があって、その木々の下を裸の人が歩いているような印象を受けた。やがてそれは壁にかいた絵であることに気づいた。
「いやはや、日にあたりすぎて頭がへんになったんじゃなけりゃいいが」と医師はつぶやいた。微かな人の気配を感じた。みると、アタが床に坐りこんで、ひっそりとすすり泣いていた。
「アタ」と医師は声をかけた。「アタ」
アタは気にも留めないふうだった。又もひどい悪臭のために殆ど気を失いそうになった。そこで医師は両切りの葉巻タバコに火をつけた。目がようやく暗がりになれた今、壁画をじっと見ていると圧倒されそうな感銘にとらわれた。医師は絵のことは何一つ知らないが、これ等の絵には医師の心に異常な感動を与える何物かがある。床から天井まで、壁全体が不思議な精巧な構図でおおわれていた。言いあらわせないほどすばらしい神秘的な構図だった。医師は感嘆のあまり息をのんだ。自分でも理解することも分析することもできない感動にひたされた。世の始まりを見守るときにさぞ覚えるだろうと思われるような畏敬の念と喜びを感じた。素晴しい、官能的な、情熱的な絵だ。そのくせどこか怖ろしい、どこかぞっとさせるようなものもひそんでいる。自然の隠れたる深みまで掘り下げて探究し、美しいと同時に怖ろしい自然の秘密を発見した人間の作品である。人間が知ってはならぬことを知った人の作品である。どこか原始的な、すさまじいものがある。人間らしさがない。医師の心に漠然と黒魔術(悪心の力をかりて行う有害なもの)の思い出がよみがえった。美しいと同時に淫らでもある。
「これこそ天才だ」
医師の口からうめくように言葉が出た。しかし言ったことすら自分で気づかなかった。
その時医師は、隅にあるむしろのベッドに気がついた。近づいてみると,そこにはかってストリックランドであった、恐ろしい、手足のない幽霊のようなものがあった。クトラ医師は勇気を奮い起して、そのやつれ果てた怖ろしいものの上に身をかがめた。その時、医師はひどくぎくりとした。恐怖がかっと心中に燃え上がった、何者かが背後にいるのを感じたからだ。だが、それはアタだった。アタの立ち上がる音は聞こえなかった。アタは医師のすぐ傍で、医師と同じものを見つめていた。
「やれやれ、わしの神経はすっかり取乱しているわい。お前のおかげですんでのところで肝をつぶすところだった」
医師は再び、かっては人間であったあわれな姿体を眺めやった。その時医師は驚いて飛びのいた。
「だがこの男は盲だったのだよ」
「そうです。ここ一年近く盲でした」


今日もモームさんの小説と一緒に歩きましたよ。まるで一人よがりのことですが 感想はやはりこれらの内容にまさるものはなく 一字一字打ってみることで 受け止めることができました。
人間は ある時 そこに痛々しいことが起ろうとも それとともに 深いことが生まれるのだと思いましたし 作者のモームさんも そうである筈だとこうして書いているのだなと。
疑り深い私ですが ここまでくると それはどうでもよくなります。

世の始まりを見守るときにさぞ覚えるだろうと思われるような畏敬の念と喜びを感じた。素晴しい、官能的な、情熱的な絵だ。そのくせどこか怖ろしい、どこかぞっとさせるようなものもひそんでいる。自然の隠れたる深みまで掘り下げて探究し、美しいと同時に怖ろしい自然の秘密を発見した人間の作品である。人間が知ってはならぬことを知った人の作品である。どこか原始的な、すさまじいものがある。人間らしさがない。医師の心に漠然と黒魔術の思い出がよみがえった。美しいと同時に淫らでもある。

《 2021.06.05 Sat  _  読書の時間 》