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モームさん

スキャン4822.jpeg『月と六ペンス』

いやーあ、こんな姿ですみません、もうちょっとまっすぐなりたかったなあ。しかしもっとおかしなことをやっていますよ、このページはきのうと同じなんです。なんていうことを!で、これはきのう急いでてもう少し読み込みたかったのに中途でおしまいにして、お客さんに続きは「読んでよ」とばかりのことをしましたよね。でも、「君、それじゃあ いかんのとちゃう?」とモームさんが言ってるようで・・

ーそれから又私はこんなふうにも想像をめぐらした、毎日々々病気の男と親しく接しているうちに不思議と心をひかれたのだと。食べさすために病人の頭を持ち上げると、手にずっっしりと重みを感じる。食べさせ終ると、、病人の官能的な口や赤い髭を拭いてやる。手足を洗ってやる、それは厚く毛に覆われている、そして手を拭いてやる時、その手は病気で弱っているとはいえ、がっしりと筋肉質だ。指は長く、芸術家らしい有能な、物を造形する指だ、その指がブラーンシュの心をかき乱すどのような考を誘っただろうか。病人は身動き一つせずにじーっと眠っている、死んでいるかと思う程に。森の野生の生き物が長い追跡の後で休んでいるようでもある。彼の夢の中にどんな幻想が横切っているのだろう、ブラーンシュは考える。彼の見ている夢は、妖精がギリシャの森の中で、好色のサターに追跡されて逃げているところだろうか?ニンフは
足速に死物狂いで逃げる、しかしサターは一歩々々ニンフに追いつく、遂にサターの厚い息を頬に感じる、それでもニンフは声を立てずに逃げる、サターも声を立てずに追う、そしてとうとうサターにつかまった時、ニンフの心を震わせるものは、果して恐怖だろうか、それとも恍惚とした歓喜だろうか?
(「私」はブラーンシュについて次々に想像をしてみるわけなんだけれども しかし ストリックランドに関しては合点がゆかないのだーと「私」は言う)
(作者の妄想の方が面白いです)
ー我々の大部分のものが共通に持っている感情など彼にはまるで縁がないのだ。だが私に理解できないのは、その出来心なのだ。
(そして恋に落ちたとは信じられない、と続く。恋とはこういうものだと、どういうものか読んで見よう)
愛とは優しさが主要な部分を占める感情である。愛には気弱さがある、護ってやりたい気持ち、善いことをしたい、喜びを与えたい熱望がある無私とまではいかないとしても、とにかく巧妙に隠した利己心がある。いくらかはにかみも含まれる。愛とは没我的なもので、我を忘れしめる。最も目先の利く人達でさえ、百も承知でいながら、自分の恋愛もいつかはさめるだろうということがぴんとこない。幻だとわかっているものを具体化し、しかも幻にすぎないと承知の上でなお、現実よりその方を愛するのだ。愛は男を少しばかり偉くさせる、と同時に少しばかり価値を下げもする。自分自身ではなくなるのだ。もはや一個人ではなくなる、一個の物となる、自我とは縁遠いある目的につかわれる道具となる。愛にはセンチメンタリティが皆無ということは決してない。私の知るすべての男はその弱点を持っているが、およそストリックランドほどセンチメンタルな傾向のない男もない。彼が愛のとりこになるなどとは信じられないことだ。

だいたい彼は他からの支配を絶対に受けられない男だ。彼は、自分を常に自分ににもわからないものへと駆りたてる例の不可解な渇望と、自分自身との間に割り込んで来るすべてのものを、自分の心から根こそぎもぎ取しまうことのできる男だと私は信じる。そうするには,苦痛も伴えば、やつれもしよう、血まみれにもなろう。
 しかし、各人の情熱の概念はめいめいの特異性に立脚しているのだから、十人十色なわけだ。ストリックランドのような男は彼独特のやり方で人を愛するのだろう。彼の感情を分析しようなどとしたって、むだな話である。
(作者の恋愛論読みました、そうなんですね、しかしストリックランドはこの論のなかには入らないと。人は十人十色だから と言いつつ。一般的に恋愛とはこういうものだという話をまず読んでいるわたしです、しかし男側のこういうものと女側のこういうものとは またちょっくらちがうのかもしれませんよね)
《 2021.05.05 Wed  _  読書の時間 》