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モームさん

スキャン4833.jpeg『月と六ペンス』

まだその子はききわけがありません 4才になったばかりだからです。4歳だから私という大人がか考える4歳だったんですけど 祖父が髪の毛を切るとき おとなしくしていました。前のときは長いお気に入りのゆわえたりできる髪を 祖父が短くしてしまったと大泣きしました。数日後保育所の先生に「その髪かわいいね」といわれたとかで 納得したのでしょうか。
今日は母親から「あっ!Kちゃん(孫)がいない,KちゃんKちゃん」『ええっ!』この声を耳にしたのか Kは こちらから見えないところにいただけなんですが ながぐつをぬぎすてるようにして 「あ!びっくりした」と とてもまがおで飛び込んできました。
「こんな感情があるんだ」と驚きました。


我々は、我々の思惑を気にする人達に対して支配力を持つ、そしてその力を、無意識のうちに、大切にしている。そしてそのような影響力を及ぼすことのできない相手を憎むのだ。人間の自尊心をこれほど痛烈に傷つけるものはないだろう。
他人を全く無視するなんてことができるだろうか?」

(これはストリックランドのことを言っているんだと思うんだけど 打ってみて半分わかります)

「君だって、現在あるものはすべて他人さまのお世話になっているんだぜ。自分独りの力で独りぼっちで暮らそうとするなんて無謀だ。おそかれ早かれ君も病気になり、疲れ果て、老いぼれるだろう。その時になって君は民衆の中に這いもどってくるだろう。慰めや同情を求める心が起った時、君は恥ずかしくないか?君は不可能なことをしようとしている。おそかれ早かれ、君の中にある人間性が、人間共通のきずなにあこがれるだろう」

(この小説に書いてあることは自分はどうなんだ?どんな感じの人間なんだ?と確かめていることに気がつきます。そして教えてもらっているような気分になるのですが)(せっかく本のコピーをあげているのに ついもう一度打ってしまいたくなるのです)

「おれの絵を見に来いよ」
「君は死ということを考えたことがあるかい?」
「何でそんな者を考える必要がある?どうだっていいことだ」
私は彼をじっと見つめた。彼は私の前に、身動きもせず、小馬鹿にしたような微笑を目に浮かべて発っている。しかしそれにもかかわらず私は一瞬、肉体と深く結びついた物の力では、とうてい理解できないような偉大な物を目指して、火のようにはげしく苦しみもだえる魂を漠然とながら感じた。私は神聖なものを追求している魂を一瞬垣間見た。私は目の前にいる、みすぼらしい服を着て、大きな鼻とらんらんと輝ける目と、赤い髭と、もじゃもじゃの髪をした男を見つめた。その時私は、これは外側の覆いにすぎないもので、私がいま相対しているのは、肉体を離れた魂であるという、不思議な感銘を受けた。
「よし、君の絵を見に行こう」と私は言った。

(肉体を離れた魂か。肉体と深く結び付いた物の力では、とうてい理解できないような偉大なものを目指して、火のようにはげしく苦しみもだえる魂、神聖なものを追求している魂、外側の覆いと肉体を離れた魂)
(これだけ その人物の魂にふれかけたというのに 絵にであってからの感想は )

「よし、君の絵を身に行こう」と私は言った。

(絵を間に こんな会話をできることはめったにないと思う。観客が感心するだけだとか 好き嫌いだとか
ストリックランドのように神聖な絵が描けてこその会話なのかもしれないけれども こういう会話はすごい)

作品は人を現わす。人は社交の上では、世間の人にこう見られたい思う表面しか示さない。だから本当のその人を知りたいなら、無意識に出たささいな動作から推測するか、或は知らずに顔をかすめた瞬間の表情から推測するしか仕方がない。時には、装っている仮面をあまり見事に演じ通すので、その内に、本当に仮面通りの人間になってしまうことすらある。ところが、書いたものや絵には、その人の真の姿がむき出しになる。てらっていれば、愚鈍さをさらけ出すだけである。鉄のように塗られた木ずりは、やはり木ずりにしか見えない。いかに奇抜ぶってみても陳腐な心は蔽うべくもない。鋭い観察者にかかっては、いかにさりげなく書いた作品でも、作者の魂の奥底にひそむ秘密をかくし了すことはできない。

(わー)(なんのわー?)

「僕にかれこれ言ってほしくないだろうね」
「あたり前さ。黙っててくれ」
ストリックランドは絵を画架にかけ、二、三分間私に見せるとそれを下して、代りの絵をかけた。三十ばかりもカンヴァスを見せてくれただろうか。

(こういうふうにして 相手に黙らせておいて三十ばかりののカンバスを見せるわけなんだ)(人に絵を見せる時)

私が初めてそれらの絵を見た時ひどく失望したことに私自身あきれている。

(そうなんやなあ)

芸術品なら必ず見る人に与えずにおかないあの特殊な興奮を、私はその時少しも覚えなかった。ストリックランドの絵から受けた印象派、私の心を戸惑わせるものだった。そして実のところ、いつも残念に思うのだが、どれ一つとして買いたいとすら思わなかった。

(そうか)

私の趣味はまんざらではないと思う。しかし趣味に独創性のないことはたしかだ。
当時の私は、印象派の画架を大そう尊敬していた。シスレの絵やドガの絵が欲しくてたまらなかった。そしてマネを崇拝していた。彼の『オランピア』を当代随一の絵と思っていたし、彼の『草上の食事』には深く心をゆさぶられた。これらの絵が絵画の最高権威であると思っていた。

(その時代に認められた絵)

彼の絵が近代絵画に甚大な影響を与えた現在、彼が最初の探索者の独りである分野を、既に図表にしてしまった現在では、ストリックランドの絵をはじめて見る人々でも、鑑賞できるだけの心の準備が充分できている。だがこれだけは覚えておいて頂きたい。当時の私は、そういう類の絵を見るのは何しろ始めてだったのだ。まず第一に私はぎこちなく見える画報に唖然とした。
私は十六、七世紀の古大家絵を見慣れておりアングルが近代の最も偉大な画架であると思いこんでいたので、ストリックランドは又何と下手に描いたものだろうかと思った。彼が目指している単純化など私は何も知らなかった。
一枚の皿の上にオレンジがのっている生物画を覚えているが,皿は丸くないし、オレンジはいびつなのには面喰らった。肖像画は実物より少し大きかった。そのために不様な感じを与えた。私の目には、顔は戯画のように見えた。私にとっては全く新しい手法で描かれていた。フオンテンブローの森の絵が二、三とパリの大通りを描いたのが数点あったが、これは酔っぱらいの馭者がえがいたもんじゃなかろうかと感じたほどだ。私は全く面喰った。色紙は途方もなく毒々しい。何もかもとっ拍子もない、わけのわからん茶番だ、という考が頭をかすめた。今となって当時のことを振返ってみると、ストルーヴの鋭い観察にはますます敬服する他はない。ストルーヴははじめから、ここに芸術の革命があると見ぬいたし、今でこそ全世界の人が許す天才を、最初から認めていたのだ。

(絵が他者から認められて知られてからを認める時 その前にストルーヴのようにここに芸術の革命があると見ぬいた人 今でこそ全世界の人が許す天才を、最初から認めていた)(許す天才 気になる言葉)
(それぐらい人は区別するよね)(この世の中はこうなんだな 読んでて勉強になりました)





《 2021.05.16 Sun  _  読書の時間 》