
『月と六ペンス』
ストリックランド夫人はちょっと眉を寄せた。数々の思い出をさぐっていたのだ。
「そういえば、結婚する前、よく絵の具箱を持ってぶらぶら歩き廻っていましたわ。でもあんな下手な絵ってありゃしません。私達はよくからかってやりましたの。あの人はああいったことにはまるっきり才能がありませんでしたわ」
「勿論言い訳にすぎませんよ」と大佐夫人が言った。
ストリックランド夫人はしばらくの間じっと考え込んでいた。私の報告がさっぱり合点がゆかないらしいことは一目で明らかだった。客間も今はいくらかきちんと整えられていた。夫人の主婦としての本能が心の乱れを克服したのだろう。あの突然の出来事の起ったあとで、私が始めて訪問した時のような、長い間貸間になっている家具つきの家のようなさむざむしい感じは、今の客間にはもうなかった。しかしパリでストリックランドと会った今となっては、彼をこのような環境に置いて考えてみることはむずかしいことだった。この人達だって、今の彼を知れば、何か調和しないものが彼にあることに、殆ど間ちがいなく気づくだろうに。
「でも芸術家になりたいというのなら、何故そう言わなかったんでしょう?」遂にストリックランド夫人はそうたずねた。「私くらいそういう=そういうたちの熱望に対して同情的な人はなかったでしょうに」
大佐夫人はきっと唇をひきしめた。大佐夫人は妹が芸術の道に励む者をひいきするのを前から快よからず思っていたようだ。大佐夫人はいつもあざけるような調子で「ぶんくわ(文化)」を語る。
ストリックランド夫人は言葉をついだ。
「なんといっても、あの人にもし才能でもあれば、まず私がその才能を力づけてあげるのが当然です。犠牲になることはかまわなかったんですのに。株屋と結婚するより、画家と結婚した方がどんなによかったかしれませんわ。子供のことさえなければ、私は何だってかまやしません。チェルシーのみすぼらしいアトリエでも、このアパートと同じように幸せでいられますわ」
「まあ、あんたったら、いい加減になさいよ」と大佐夫人が叫んだ。「まさかこんなでたらめなことを一言だって信じてるんじゃないでしょうね」
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ストリックランド夫人は ここでは 株屋と結婚するより画家の方がいいと言いました。子供さえいなければ。そうなんですね。
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並んでいますね