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モームさん

スキャン4760.jpeg『月と六ペンス』

 ストリックランド家について書いたところを読み返してみると、彼等が影のうすい人達に見えるにちがいないということに気がついた。小説の中の人物を実在の人物のようにいきいきとさせる特異な性格を、彼等に与えることができなかった。それは私のいたらぬせいかもしれないと思って、懸命に頭をふりしぼり彼等をいきいきとさせるような癖を思い出そうとした。何か話ぐせとか奇癖のようなものをくわしく書けば、彼等特有の個性を与える事ができるかもしれない。このままでは、彼等は昔のつづれ織りの中の人物のようなものだ、背景と切り離すことができないし、遠くから見ると形はなくなり、ただ感じのいい色のかたまりにしか見えない。私のたった一つの言い訳は、彼等から受けた印象が正しくその通りだったということだ。彼等には、社会全体の一部を構成する生活を営み、従って社会の中に生き、又、社会によってのみ生きる人達の中に見受けられるのと全く同じような影のうすさがある。こういう人達は人体の中の細胞のようなもので、書くべからざるものではあるが、健康である限り、重要なる全体の中に呑みこまれてしまう。
ストリックランド家は中流階級のごく普通の家庭である。文壇の二流どころの文士連に対して害のない熱をあげている、感じのいいもてなしのうまい婦人。慈悲深い神が自分にお授け下さった人生の条件の中で義務を果しているやや退屈な男。二人の顔立ちのいい健康な子供達。こんなごく平凡な家庭が他にあるだろうか。せんさく好きな人達の注意を引くようなものが、彼等にあるとは思えない。

ストリックランド家のことについて 主人公はなにやら反省をしているところのようですね。
「何言ってるのよ 家に入ればなにかしらあるものよ」などと外野の自分は言っています。
しかし小説というものは この中間のつなぎが大事なんだなあと 夏目漱石の『こころ』を読んだとき
教えられた気がしたのを覚えています。

「インドでな おっさんが函詰めの空き缶に金魚を一匹だけ入れて売ってるねん」夫がかってインドで見た
道端での様子をこういいました。テレビでも 道端で散髪をしているおっちゃん 耳かき屋さんも。
自由という言葉がありますが 日本と インドでは違うんやなあと。
自分は古い塗りの ちょっとはげかかった汁碗に 魚一匹入れて売ります

《 2021.02.25 Thu  _  読書の時間 》