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モームさん

スキャン4747.jpeg「月と六ペンス』

私はその頃、ヴィクトリア駅の近くに住んでいたから、文士仲間で客寄せの好きな家に行くにはバスに長いこと乗らなくてはならなかったことを思い出す。私は臆病なので、ベルを鳴らす勇気を奮いたたせるあいだ、大通りを行きつもどりつしたものだ。やがて、心配のあまり胸が悪くなりそうになりながら、人の一杯詰まった息苦しい部屋に通された。次から次へと著名人に紹介され、その人達から私の本について深切な
言葉をかけられると、たまらなく居たたまれないような気分になったものだ。私が何か気の利いた言葉を吐くだろうとその人達が待ちもうけているのを感じていながら、パーティーが解散になるまでは一言も思いついたためしがない。私は紅茶茶碗を順に廻したり、あまりうまく切れていないバタつきパンを配ったりして、気まずさをごまかそうとした。誰にも注目されずに、好きなだけ自由にこの著名人達を観察したり、
その人達の気の利いた言葉に耳を傾けたりしたいものだと思った。大きな鼻と強慾な目をし、鎧でも身につけているような格好で服をまとっている巨大な不撓不屈の婦人達や、猫なで声をし抜け目のない目をちらちらと投げる小柄な鼠のような老嬢達のことも覚えている。彼らが断乎として手袋をはめたままバタつきトーストを食べる様子を、私はあかずに関心してながめたものだし、誰も見ていないと思うと平然とその指を
椅子になすりつける様子も感嘆して眺めた。家具のためにはよくないにちがいないが、女主人だって今度自分が友だちを訪問する版になれば、その家の家具に仕返しをしているにちがいない。婦人方の中には流行の服を着る人もいた。この婦人方に言わせると、何も小説を書いたからといって山だしみたいなかっこうをしなけりゃならないって法はないわ、せっかくいい姿を持っているなら、それを大いに活用したらいいでしょ、かわいらしい足にスマートな靴をはいているからといって編輯者がその人の「もの」を取り上げるのを渋ったためしはないわ、というのである。しかし他の婦人方はそういうん身なりを軽薄だと考えて、「芸術的な織物」を着て、野蛮な宝石をつけた。男性の方はめったに奇抜なかっこうをしない。むしろなるべく作家らしくないよいうに見せようとする。世なれた人物に見られたいと希っていたし、事実ロンドン中央の大会社の高級社員だといっても結構どこでも通用したことだろう。彼らはいつも少し疲れているように見えた。私はそれまで作家と付き合ったことがなかったが、作家ってずいぶん変っているなと思った。しかしどうも私は彼らがあまり実在人物のような気がしないのだ。

こんにちわ。
ぱたぱたと文字を打ちながら、気ずくことがあります。今日のは『月と六ペンス』は自叙伝なんかではなく小説だよねということ。それまではモームさんが自分の身に起こったことを描いていると思っていたわけなんです。たとえそうだとしてもモームさんという名前は出てこないんだろうなと
さて、ここでは作家達の集まるパーティーへ出かけて行く話ですね。主人公は名前が売れはじめているので、客寄せとして招かれているにも拘らず、その場にいて手持ち蓋差でいる。しかしそこは作家、まわりの婦人たちや作家達の観察をじゅうぶんしている。
それで読者の私はまるでロートレックの絵を見ているように感じるのです。物を食べる仕草、着飾った婦人たち、男たちはしっかりした高級社員のような出で立ち
これらの観察に笑ってしまいます
で 今はどうなのか 私はそういう集まりにでてはいないのでわかりませんが どこか似たようなことが
あるような気がするのですが お客さんどうですかね

ちなみに 上の写真はさら2まいですね

ところで モームさんの小学生時代はぴしっとしたスーツを着て男前です(写真があるからです)
私の写真よりそれがみたい、お客さん そのうちに
私は今のところ『いまに生きるサマセット・モーム』をどういうふうに読もうか考えています
それで 『月と六ペンス』はただ 読む
『いまに生きるサマセット・モーム』は たとえばー「人間の絆」の真実をめぐってーでは こういう箇所があるんです
ーある時、パリで知己になった中年の詩人クロンショーに人生の意味を問うと「博物館のペルシャ絨毯にその答えがある筈だ」といわれるんです
なんのこちゃらの私ですが きっとどこかでつながりそうなんです ペルシャ絨毯の話は次ぎの時に

《 2021.02.11 Thu  _  読書の時間 》