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母の自伝

スキャン4604.jpeg母の自伝

つづき
いつも食事とはと云われると100%と得意になっていたのに さっぱり進まぬようになり
退院してからは 食をさっぱりせぬのに弱り 山中先生にお願いして入院して 点滴をしていたが
しだいに弱り 病気がはっきりせず 胃と思っていたのが すいぞうで それもしゅようらしいと言われ
とうとう前野さんの世話で県立病院に入院した
入院してからは検査の毎日で 主人は益々弱っていった 遂にこの病院では使われない機械の検査に
西宮だったかどうか忘れたが病院に行って検査してもらうよう云われた 
ハイヤーを頼み弱った主人をつれて先方の病院にいった
大変な検査らしく主人はぐったりしていた
そして先生のはなされたのがきこえたが レポートかなにかを書くようにはなしておられた
私はふんがいした その後は腹痛で夜中でも痛み 痛み止めの薬をいただきににいったり 結局
親類のものを呼ぶように云われ 息子たちを呼び 父はすいぞうガンで 後一カ月の宣告を受けた
そんならそんなえらい検査をしなくても 弱り切っている病人をと 母は ふんがいした
死亡するなら 家の近い所に帰っていないと困るので 山中先生にお願いして 山崎まで引き上げる事にした
主人はとうとう手術もできないで 医者に見放されたというのを みんなでなだめた
病院にまた入院させて頂けるのかと聞いたりして 背広に着替えお世話になった人々にお礼をいい
靖の車 輝(母の弟)の車に分乗して県立病院を後にした


こういう病気の経過を読みますと 同じ状態の人たちのことや家族の人たちが 大変なんだなあと
思います 母は弱ってる病人を検査検査でさらに弱らせたと ふんがいしています
私が会った時も 痩せて弱っていましたし 母の気持ちもわかります
あのときは いまはなき輝のおじさんや 靖兄が 父を山崎までつれかえってくれたのですね
私も 武兄と 見送りました これが最後の別れになるかも知れないと思ったものでした
父は まだ希望を捨てているわけではありませんでしたが また医者に見放されたとも思っていました
病気をすると そういう揺れ動く気持ちになるものかもしれませんね 
礼儀正しく みんあにあいさつをして 父は山崎まで帰って行きました
病院を出たのでした
叔父は 丸山ワクチンを手配したりしてくれました あの母の仲の良い弟です
《 2020.09.18 Fri  _  思い出 》