母の自伝
つづき
田舎に帰る事にきめた 帰ってからでもすっかり気弱になって こちらからはっぱをかけるのが大変だった
食糧難でも都合をしてくれず困った
田舎では就職した所が波賀のほうで 通うのが大変で いろいろおはなしして近くに変えて頂いた
終戦後 山崎の平形先生に山崎小学校の教頭にばってきされ 山崎のおばあさんの一室を借りて
一生懸命に勤めた
やり出すととても熱心にやる性分だった
やがて三方小学校の校長となり主人もようやくあかりがさしだした
やがて下三方中学校の校長になり 中学統合とともに定年となり職を引いた
これでゆっくりと休養してもらうと思ったが 勲はあと一年大学があり のり子も大学四年行かさねば
ならず まだいんきょするわけにもいかず 息子たちの結婚もある
主人はお母さんお金あるかときくばかりで さっぱりお金があるのかないのかわからぬ状態
私は子どもたちのためにたくわえていたお金を引き出して 就職の時の支度 結婚費用など何とか都合した
こんなときには主人はさっぱり役立たなかった
その代わり月給はちゃんとだし 身の回りもけんやくに協力して 少しも不足を云わず 他の先生方は立派な
洋服を着ておられるのに 主人は 私の作った手製の服 すねの破れ掛かったズボンなどで不足も云わず
辛抱してくれた
また 一宮町の歴史へんさんを依頼され それこそ寝食を忘れて頑張った
大分資料もたまり だいたい目鼻がついた頃に 私の云う事も聞かずに がを通して山で足を負傷し
七十日も入院手術し その間も歴史の史料を 私がとりに家に帰り 寝台の上で一生懸命
しかし傷がよくなるにつれて 体調をくづし 食も進まぬようになった
*
母は 父のことを こんな風に書いています
結婚して以来 母はこの父のことを 文句を言いながらも したがっています
いいだしたらきかない そんなところを わかっていたからなんでしょうね
私も 末っ子なので 父のことを 母とともによくみていたのですが 母が見ている
父のいいところは とても結婚生活で 安心できる事だと 私もこの歳になって思いますね
村の役とか 父は出てくれましたし そこは父じゃなくてはできないと 母はそれなりに尊敬していました
そのようすを見ていて 母はよく あの戦争のあった時代を生き 父はよっぱらてかえってくるものの
学校をつとめあげたんだと思いました 私たちを学校に入れるためにも
父が母の手製の背広を着ていた事は 背広って プロの仕事ですよね どんな背広だったのかな
お父さんお母さん ありがとうございました わたしなどその感謝が足りなかったと 今はこうして母の自伝を
読んでいて思いますね
父は何事においても はじめたことは 一生懸命すぎる所があったんですね
父が山崎の祖母の妹の一室を借りて学校に通ったんですね 父と前野さんのつながりは 父方のつながりであり
母の美保関の里と同様 深い関係が ここでみてとれました ありがとうございました
どうしても 母方の里の事で わたしの記憶はうめられていたのですが ここにきて 父方もバランスよく
みえてきました