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母の自伝

母の自伝

つづく
月曜日になると母は朝からそわそわして出かけ 夕方まで遊んで帰って来る
時には私も子どもをつれて公園などにつれていってやる
おじいさんは孫をおんぶして近くの長田神社に行かれる
時には孫の帽子を落として おばあちゃんにこごとをいわれるのである
子どもは帽子をきらってじぶんで外へほりだすのである
二年おいて次男誕生 三番目は大望の女の可愛い赤ちゃんだったが 一カ月で肺炎でとられてしまった
主人は同じ学校で頑張っている
三男が生まれた頃より 戦争の気配が強くなり 学童疎開がはじまる
主人は主任として湯村温泉に行くことになり 私たちも何とかしなければならぬ状況になる
長男は主人の学校に頼み 主人といっしょにいかせることにした
次男と乳飲み子の三男は祖父母と宍粟の主人の里に行くことにした
とりあえず私一人のこることになった 親子バラバラだった
疎開地の人々は大変親切で 主人もそれでもなかなか大変だったらしい
空襲も少し少なくなったので 勲はおばあちゃんといっしょに私のもとに来たが 来たとたんに 空襲が
はげしくなり やはり安全な田舎へ帰した
主人は学校の事などで神戸に帰る事があると なにしろ好奇心の強い人だから 戦闘機をのぼせあがって見て
さっぱり荷物の整理をしてくれず そのまま疎開地に帰るありさまだった
二十年の三月十六日の大空襲は神戸全域がやられたくらいはげしく 私の家もあとかたもなく焼失した
主人が大切にしていた本も全部焼いた 主人はなにひとつ手伝わずに 本の焼けた事に気を落とした
人命と本とどちらが大切かと主人にいってやった
こんなとき独り子の本性まるだしで さっぱり役に立たなかった
田舎にいやけがさして神戸に出ていながら すっかりしょげて田舎に帰るといいだした
私は今後の子どもの教育のことを思い 神戸に残って再建しようといったが 心の弱いくせに言い出した事は
あとにひかず


戦争は かぞくをばらばらにしました
このどうしょうもない状況のなか 母は父のことをこきおろしています
戦時下では 母のこの強さがめだちます こんな大人のあわてる いろいらすることが あちこちにあったんでしょうね
子供たちも 祖母といっしょに 乳飲み子でありながらも母を離れていなければなりませんでした
祖母はそんななか病気になります 大変な状況下 それは年とった人にとって どんなにか大変だった事でしょう
祖父も 田舎で食料をもとめるも 大変だった筈です
それまでの平和な暮らしは どこにもありませんでした
《 2020.09.15 Tue  _   》