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母の自伝

母の自伝

つづく
主人の事
一夫は宍粟の山奥で(兵庫県)村長のひとり息子として生まれた
父は旧家の生まれで 本家の隣に新宅して森林や田んぼを分けてもらった
母は山崎の(兵庫県)士族の生まれでてんけい的に士族の気質で 気難しい人だった
年齢は母の方が十歳若く 十年くらいして当時アメリカより帰った産婦人科の先生が神戸におられるとのことで
神戸まで行き子宮後屈の手術をしてやっとうまれた男の子であった 両親の愛を一身に受けて 大切に大切に育てられた
身の回りの事はいっさい人手で何もしない 学校に行く途中でひとやすみするも 弁当をそこに投げたまま行く
近所の人が 坊ちゃんが弁当をなげたまま学校へというと 母は大急ぎでとりに行き 学校に届けにいく有様だったらしい
幸いに学校の成績はよく 走る事も得意だったらしい
姫路の師範学校を出て 下三方のがっこうにつとめる
はじめての遠足の時は 袋入りの菓子を一人一人に渡したという話も聞いた
田舎での学校生活にくぎりをつけて 神戸の真陽小学校に赴任して そこで思う存分に頑張ったらしい
私もその頃神戸市の学校に勤めてて その同じ学校の先輩の女の先生からすすめられて 学業中結婚した
学校に行っている途中の弟の学資のめんどうを見ながらだった
一人っ子の欠点を十分備えた主人は 自分勝手な仕事は何も忘れてするが 他の家庭のことは何一つしできなかった
しかし何一つ文句も云わずしやすい人だった
ともかせぎの生活も一年くらいで長男の誕生で 田舎の両親に来てもらい 両親との生活がはじまった
両親とも孫を大変可愛がった
父の方はたいへんおだやかで優しい人だったが 母はかたぐるしく気むずしかった
自由に母の里にひたり 兄弟たくさんの中に育った私とはなかなか気があわず 気のさわりあなどったことを言われ
腹が立ってしかたがなかったが 子供の為にしんぼうした
こんなきびしい人でも 主人には甘く さとうのようで 手をとり足とりでご飯の時は はしを出してやり
学校からかえれば ご苦労さん大変だったといって 服を脱がせ汗をふき うちわであおぎ はれものにさわるよう
大事にした 同じつとめをもつ私は家に帰り 子どもの世話であり炊事であっても ちっとも疲れないのである
私の母が上京している時は その差別にふんがいしておこりだす
私は母のなだめ役だった
こんな生活にもしだいになれ 何事も気にかけぬことにした
主人が元気につとめてくれたら それでよいと思っていた


父のことは ドラマのようですね ひとごとですからでしょうね
母とまったくちがった家庭環境 それは子どもの私にもよくわかりました
太い柱のような母のイメージ 自分の楽しみに むちゅうの父 祖父母に甘え 母に甘え そんな人だったのですね
母は しかし やりやすい人ではあったと言っていますね 子どものような人だったんでしょうね
よく風邪を引き お腹もよくこわしましたが 戦争の時代の考え方なのか 男の子にはきびしかったようですよ
私は 末っ子で やはり甘えて育ったのか わがままなところがありまして テスト前になると 機嫌が悪くなって
父に「お父ちゃんは 一人っ子やから」とわけのわからないことをいったりして ごねていましたね
私は たいがい母のみかたでした 
今は 父のことがよくわかり こういう母の自伝を読んでいても さらにわかり
父のアートは いいなあと思いますし 私の師匠でもあります

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《 2020.09.15 Tue  _   》