who am ?I

PAGE TOP

  • 09
  • 13

母の自伝

母の自伝

それから私の独り住まいの生活がはじまった
なにかにつけて主人のいない生活は 不快な事が多かった
家が古いため 音がするたびに 不安である あちこちいたみ 特に座敷と寝間の大きな柱が 横柱がゆがみ
ふすまもしまらず 一度近所の大工さんに来てもらったが 道具がそろわず 不備に終わり 今度は専門の人にたのみ
やっとなおしていただき ふすまのゆがみもなおり ほっとしたが ゆかもいちどはりかえたところが
生板が一部あって 虫がつき これも入れ替えたり シロアリがおって 専門の人にたのんで消毒してもらったり
屋根のぬりかえやら つつきだしたらきりがない
家をつぶして小さい二間ほどの家を建てたら どんなに気が安まるかと思うが さて片づけるのか容易ではない
こんな不安なおもいまでして この家にとどまるべきかと いつも考えると 夜のくるのがいやだった
畑もひろいが独りでやっと出来た野菜類はみんなに送った

墓守しての生活も主人没後七年たったが 法事をする元気もなく 私ひとりでお寺さんに参って おがんでもらった
早八年目を迎えた 昭和十二年の冬は 気候不順で風邪を引きなかなかよくならず からだの不調を感ずるようになった
両足のすねから下ははれあがり顔もくすんだ 足がだるくてなかなか歩けぬ
町に買い物や用事で行くのが大変で 孝子さん(知り合いの人)に何かと助けてもらった
夜が不安で 事なくあけるのを待つ毎日だった
このままではどうにもならぬので 山中医院にたのんで入院させてもらうことにした
入口の一室でトイレも近い所にあり 独り部屋でゆっくり休めた 夜看護婦さんをよぶこともなく その夜からゆっくり休めた
食事がだめだったのに こちらにきてから おいしくいただけた
薬は同じだのに 足のはれもしだいにとれ 歩くのも大丈夫になった
なにかと前野さんの世話になった 休養で誰にも迷惑をかけまいと思っていたが 長いのでぼつぼつ見舞いに
来てくださる人がありだした 早く退院したいと考えている
靖も康恵と来てくれた みんな心配せずにそっとしといてくれたらよいとおもう
このように不快な冬だったがただひとつうれしいことがあった
美奈が京大の法学部に入学した事だった 孫のうちで一番見込みのある子だった


父と母の住んだ家は 祖父からの家で だいぶいたんでいたのですね
それを父は いつも 直したりつけ加えたりしていた訳なんでしょうね
父が亡き後 家をいじる人は消えたのです
母が 夜 たったひとりにの音のしたりするうちは 不安だったのでしょう 母はそんな話をしていましたね
「夜ふっとめがさめるとなあ だだひろいなかにひとりやでなあ」と
それでも 母は子供たちや近所や親戚にできることなら迷惑をかけずに さらにそっとしておいてほしかったんですね
それは子どももいるのに どんなもんだろうなというより 年をとるとそういう気持ちになるのかも知れないとも 考えるのです
父の亡き後 母が生きている間は 兵庫のお墓詣りに帰りました
お墓が 兄の所に移されると 兵庫のそこへは帰ることもなくなりました 里の豊子のおばちゃん一家の人たちにも
お墓詣りの時は本当にお世話になりました ありがとうございました
私は ほんとに 里の思い出はいっぱいあれども 帰りませんでした
この間 前野のおばさんから 「そっちのほうの水害とか 大丈夫やったん?」という電話をいただきました
こうして母の自伝を読んでいますとよくわかるのですが 母は前野さんや中山医院さんや豊子のおばちゃん 孝子さんやいろんなかたがたにお世話になっていたんですね
話には聞いていましたが あらためて感謝の気持ちでいっぱいになりました
母は 晩年は この寒い信州に私たちと一緒に暮らすためにやって来ました ちゅうちょしつつですが
7人家族になる訳ですから それは当然の事でしょう 淋しくとも ゆっくりした所のほうがと 迷った筈です
それでも豊子のおばちゃんに そういうさそいがあるうちに行った方がいいよというようなことを言われて
老いては子に従えの気持ちで来てくれたのです
あんのじょう 引っ越し荷物も大変で くれば大家族の仕事に追われて ときどきする近くの病院では
ベッドの上で 案外落着いているのを見て 私は笑ってしまいました 
とてもやせていて それでも 我々家族のせんたくほしだとか やってくれるのでした
「のいちゃん はよおきんと せんたくがかわかんで」と階下から毎日声がした者ものした
これで母の自伝もおわりかなと思いきや 大学ノートの最後の4ページに 主人の事が書いてあるようです

思いで

スキャン4600.jpg
《 2020.09.13 Sun  _   》