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母の自伝

母の自伝

つづき
前野さんの世話になり入院した
ここでも よい所は出ず 毎日毎日検査とてんてきにあけくれ しだいに弱っていった
それから大学病院へ
考えてみるに 大学病院は患者の事をあまり考えていないんじゃないかと思う事があった
主人が弱っているのに 機械があいていないから 他の病院まで検査にいってくれと いわれ
タクシーをたのんで先方に行ったが 大変な検査で 本人は相当えらかったらしい
ちょっと医者の話をきいていたらレポートを書くとか何とかいっていた
重症の患者を遠い病院までいかせるなんて ふんがいした
やがて息子たちも呼び 医者よりすいぞうガンの宣告をうけて 数カ月と言われた
覚悟はしていたが主人を見るのがつらかった
主人はよくなるものと思い込んでいるものだから 
私は 主人の死の宣告を受けたので とにかく 家の近くまで帰っていなくてはと 
山中医院にお願いして息子たちと 山崎まで帰って 
主人は医者に見放されたといって何か感じたようだった またこちらに入院させていただけるのかと
しきりに医者に聞いている
ここでも死を待つばかりの 見込みのない者を看病する時のつらさを痛切に感じた
主人は痛さをこらえて 口ぐせのように すまんな 今度よくなったら お母ちゃんにもしっかりお礼するという
今度大工仕事の電気カンナがないから 買ってくれよという
カンナくらいいくらでも買う それよりも早く病気をなおして 家に帰ろうとなぐさめた
主人は金銭についてはさっぱりで 月給さえ出しておけば それで知らん顔で 子供たちにいくらいるのか
一度も送金した事がなかった
子どもの結婚式の時も お金はあるのかときくだけだった そんな心配しなくてもよいといつもいった
そのかわりせいいっぱいの不自由をしてもらった
服もきたきりで 破れるのか心配で 布を買ってきておそまつなのをぬったが そんなぶさいくなものでも 
よろこんできてくれた


父の病気は 大変な事になっていたのです
子供たちは 外へ出て働いて居り 私は結婚して 大きなお腹をしていました
そんななか 父を看病する母は とても辛かったと言っていますね
たしか 病因側から云われたように 3カ月の命でした
父が 病院から山崎まで帰るという時 兄たちと私は 見送りにいきました
私は見送った後 兄と歩きながら 声を上げて泣きました
病院はそれまで 大阪からもまだ近かったので 父と母によく電車に乗って会いにいきました
そこでも 私は 父たちと一緒に住んでいる時に せがまれて 耳かきをしていましたが
さいごのつもりで 耳かきをしました やせた父でした
父は 大工仕事が好きでしたから その道具を揃えたりするのが 楽しみの一つだったのでしょうね
父の大工部屋は そんな道具でいっぱいでしたからね
みんな生きている時は 希望とかやりたいことを もっているのですね
《 2020.09.11 Fri  _   》