母の自伝
つづき
息子たちを独立させ やっと肩の荷をおろして これからのんびりと
老後を送りたいと考えていたが 主人はお人よしで 人に頼まれたら断わるすべを知らぬ
私がことわりに行くから はっきり返事をせぬようにと呉々も云っていても ちゃんと引き受けて帰って来る
総代がくるわ その他の役をいろいろせおいこんで 帰ってはけんかがはじまるのである
その上に 町の歴史まで引き受けて帰って来た
これは町のためだからと思ってやりだすと とどまる所を知らぬ こりしょうで 毎日毎日その研究のために出かけるわ 夜は一時二時までもやる
これでは健康が持たぬ
畑も悪いと思うのか出て来る
畑はいいからひるは自分の仕事をして 夜は早く休むよういったがだめだ
私はしまいに あなたは歴史で命を縮めると 度々注意した
仕事は大分はかどるのか 資料は大分できたらしい
今度は小学校の時のクラス会をするといって いろいろ調査して案内状を出すわ 東走西走である
クラスの人たちは大阪や九州方面からも集まってみんなおおよろこびだったと よろこんでいる
もし自分が出来なくなったらと次ぎの人をちゃんと頼んでいた
一度息子たちの所へ行って様子を見てこようと相談していた
丁度主人の友だちの人が村の木を買って 板を分けてくださった 丁度家の林の近くだったので 毎日林まで運んだ
すっかり運んだから大阪からかえってから整理しようと云ったが 家まで
持ち帰るといって きかぬ
とうとう大八車をもってきて 重すぎるほどつんだ
私はあぶないからやめなさいといっても 言い出したらなかなか聞かず
道へ出た所で大八は引っくりかえって 主人は足を打って動けず 月曜の事だから 家まで帰って本家にお願いして波賀の診療所に行ったが
骨をやられているので ここは駄目だが 丁度 郡民病院に外科の先生が出ておられるから そこへと云われまた引き返して山崎まで出た
主人は作業着に地下足袋 私も作業着のままだったので 中年の先生は
「おっさん骨をやられているから七十日くらいかかる」と言われ とうとう大阪行きはチョンとなる
はらがたつやら 情けないやら 私は家まで帰りネマキなど用意して
その日から主人の看病に当たった
べつに内臓が悪いのではないから 食事もよく進み 看護婦さんにきかれると 100%と 得意げにつげる
いつも何を言っても受入れず 失敗の多い主人には ほとほといやけがさした
そしてかがとの所の骨をつぐ手術をして 私一人がついて手術もおわった
主人は寝台の上で歴史をはじめ 私は歴史資料をとりに帰された(結構遠くバスでのいききとなる)
畑の方もやりくさしなので 時に工合のいい時に いちごをうえに帰ったりした
ねるところもなく 寝台の下でねむった
医者の云った通り七十日かかったが 終わりごろに健康をがいし 食事の方が進まなくなったが 足の方はぼつぼつ歩けるようになったが
退院した
*
ここは 父のことでいっぱいですね
母にはてのやける いうことをきかない夫だったんでしょうね
母はだいぶしっかりした人でしたが 父はこのように言い出したら聞かない人で 頼まれ仕事は引き受けてしまう おひとよし
母は なかばあきらめごこちで 父にしたがっています
父は もともと そんなに丈夫な人ではなかったのです
大八車で木を家まで運ぶ時 けがをしておきあがれなくなりますね
実は 私が結婚したので その家を尋ね 大阪の枚方キク人形を見にいこうとか 父母は計画を立て私に言っていたのです 靖兄の所にも いこうとしていたと思います
そうなると なにか かたずけておかなくてはと 父は そんなところが
あるんでしょうね それもいちどきに 母もいっしょにやるのですから
私たちの所に来るまでに とても疲れていて 今度は早く帰ろうとなるのです
どうしょうもないですね
そんな父も母も もういません
からだのことが心配になるほど 町の事や村の事をやる そんな父を
お人よしだけど いとしいと思います それは時が経ち ふりまわされる母のような役になかったからでしょう
私は 母の云った通り まずめんどうそうな事は ことわることにしています お父ちゃんが身を持って教えてくれたのです (ちがうか) 何でもあんたは断わる事からはじまる まわりにそういわれますが
父ののこした町史 どこかにあるはずです