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母の自伝

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母の自伝

つづき
食糧難はいぜんとして続き 私はなれぬ畑仕事にせい出して 食物をつくるのに専心した
次第に世の中も明るくなって来て 大分食物も少しずつ手に入るようになった
やがて主人も恩師平形先生に山崎小学校の教頭にしていただき 我が家もぼつぼつ立ち上がれそうになった
そのころ私はにんしんして 主人のおらぬ(単身赴任)出産か とても不安だった 子どもはまだ小さいし 里より母に来てもらった
出産が近づいたが主人はおらず 母は土地不案内で 早朝は子ども二人(長男次男)によくいいつけて 家から少し離れた川向こうまで使いに出した(産婆さんのところ)
先方まで行って 使いを果たすか不安であり 出産は近づき心配だった
それでも二人は子どもながらにちゃんと用を達していて 産婆さんも来られ 無事出産することができた
待ちに待った女の子であった そして優しいなき声で泣いた
大変おとなしいやりやすい赤ちゃんだった
髪がうすく 生えるかと案じた
主人も大喜びで早くよりいろいろおもちゃを買って来た
心安まらぬのは 兄ちゃんの勲君(三男) 長女をなくしてみんなに大変可愛がられて成長しているので みんなが妹に気をとられるのは心外だった 主人も赤ちゃんのものばかり買って来た
ぼくいらんものだからとご機嫌が悪いときも
私も主人に赤ちゃんのものばかり買わないで 兄ちゃんのも買って来てやってと言った
昭和二十四年五月三日の憲法記念日に生まれ憲子と命名した
憲子はおとなしくすくすくと成長した
今度こそ気楽に母にゆっくりおってもらおうと楽しんでいたのに 早々に
弟が母を迎えにやって来た そして自分の家に連れ帰ってしまった
残念でしかたがなかったが弟の親孝行で 少しでも母を楽にしようと連れ帰ってしまった
独りで大変だったが いつかもこうなる事なので覚悟を決めてふんとうした


私は こうしてうまれたのですね
長兄は 「やすしといっしょに懐中電灯をつけて 産婆さんを迎えに行ったんだよ はじめにいったところでは他のお産があって いなくて 他の産婆さんに来てもらったんだ」そう私に言いました
私が物心ついた時には 兄たちは しっかりした大人だったので
兄ちゃんたちなら大丈夫だっただろうな と思っていたのですが その頃の兄たちはまだ少年で 母にしたら兄たちは まだまだ子どもだったのですね
私も母の里のおばあちゃんといっしょに 赤ちゃんの時 いたということで 記憶はないものの うれしいです
私とすぐ上の勲兄とは どことなくぎくしゃくしていて これはルーツはここらへんに あるのだなと思いました
ぼくいらんもんやもん あのときの兄の 無念さは わかります
男の子のあとの女の子は 育てやすいと言います 泣き声からしてもね
私は親にとても可愛がってもらったという訳なんですね そのかわり 三兄にはやられる事が多かったです
しかし 大きくなってからは やりにくい女の子だったかも そう思いますね お母ちゃん ごめんね
母が四十一歳のときに 私は生まれました
《 2020.09.07 Mon  _  思い出 》