母の自伝
つづき
空襲の心配もなくなり 夜もあかりがつくようになったが 食糧難は
いぜんとつづき 敗戦とともに いろいろな流言飛語がながれ
男子はほりょになって重労働につくとか みんな殺されてしまうとか
子どもはみんな殺されてしまうとか 殺風景な話でもちきり
私はどうなるかと日夜心を痛めて いっそ今のうちに子どもをつれて山の奥にかくれようかと しかしここにいても食べ物がないのにどうなるのかと 夜もおちおちねむれなかった
天皇陛下が敗戦のせんげんをなさったとか 田舎におると何事もこわさだけで わからぬが とにかく日本は戦いにまけたということは みんなしっかり身にうけとめ これからのけわしさのことを思うと いろいろ不安な事のみ話して 今後どうなるかと不安の日夜だった
集団疎開も解散となり 主人も帰って来た
気の弱い人だから 人一倍だげきを受けぼうぜんとしている
これからどうなるやら 先の事は誰もわからぬ
とにかく 別れ別れになっている子どもと共に 生活をたてなおさねばならぬ
主人もこちらに帰るようお願いして波賀小学校まで帰ったが 通うのが
大変で 下三方まで帰していただき なんとか家から通えるようになった
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戦争はおわりました 1945年です
その後の事は それぞれに 子どもや家族が殺されるんじゃないかという不安 母は3人の男の子をかかえて どうすればいいかと思い悩んでいますね 母だけでなく 多くの人がそうだったのでしょうか
戦後の食糧難は まだまだつづき 食べ物が貴重という気持ちは 母にはずっとありましたね 野菜が出来れば 都会に出ている子供たちに送り
子供たちは ここにもあるからいい などというのもいましたが
母は 母の里にも 送りつづけました
父の里で 一家が全員あつまり 戦後の生活がはじまったのですね
心配症の父が 戦後大胆に楽しめたのは ものをつくることでした
これは ポスト 私が思い出して描きました
父は 祖父からの家を いつも改造しては カナズチの音を聞かせていました