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母の自伝

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母の自伝

つづき
配当にキュウバ砂糖 まずいトウモロコシかなにかわからぬ粉
粉の中でもいもの粉はおいしかったが なかなか配給されなかった
まづい粉でむしぱんをつくり食べさせた
学校に行けば農家の子供たちは銀めし うちの子はごはんがわずかにある
雑草めし 時にはもちをもってくる子もあった
こんなだったら 同じきょうぐうにある神戸にとどまった方が 子供のためによかったとつくづく思った
いろいろな屈じょくにたえて 品物や金をもって 僅かな米を手に入れて
何とかその日を食いつないで
こんな時に 独りっ子で何事も父母に甘やかされて育ったボンボンの主人はさっぱり役に立たなかった
ひたすら 世の中がへいせいになる事を待ち望んだ
祖父母(義父母)は絶対に戦争には負けぬと信じていた
そのうち義母はなくなり げんきだった義父も一カ月後に後を追うようにしずかに息を引き取られた
戦争中で何一つしてあげられなかった
義父母の死は後悔のみ残った
主人のなげきは 大きかった
義母のなくなったときも 葬式も思うにまかせず 義父が昔の友人より米を買って 何もない時代だから蚕のさなぎからとった油を 琴さん(父方のいとこのおよめさん)にいただいたりして てんやわんやのうちに
葬式をすました
それから一カ月は 息子が相変わらず食料不足の時 義父はなにひとつ
不足を云わぬ人で 毎朝お経をあげ そまつなものを感謝して頂く
信心深い人だったが ある朝 表戸を開け お経を上げ またねまにはいって休まれた
粗末な食事が出来 おじいさんごはんですよというと すぐにとんでくるひとだったのに なかなかこられず 気持ち好さそうにグウグウ寝て居られた 少しおかしいと思い ゆり動かしたがおきられず 当時医者もなく
少しの苦しみもなく静かに息を引き取られた
せめて腹一杯食事が出来るまで生きてほしかった
主人はあれほど愛して大切に育てていただいた両親に亡くなられたのである 
何もしてあげられなかったから せめてあれほど日本を信じて 戦争に勝つと固く信じておられた義父は 日本の敗戦を知らずにおまいりさせていただいた事が せめてものなぐさめだった


祖父母の死は 終戦間近な頃 悲しい出来事でしたね
母は 祖父が 日本は戦争に絶対負けないと 信じていたと書いていますね 祖父母は そのころにしてはめずらしいというか 恋愛結婚だったんです とくに祖父が 祖母にほれこんでのことだったらしいです
母は 姑である祖母の事は いろいろ不満もあったようですが 舅さんのことは やさしいひとだったとだけ 何度も言っていましたね
言葉使いからも祖父の事を うやまっていることがわかりますね
でも 孫の食事作りから 実務にあったっていた祖母は 母ともぶつかる事があったのだと 女として 私は みているのですがどうでしょう
祖父は信心深い人だったのですね ごはんですよというと すぐにきてくれる祖父 母が言っていましたが 姑さんが母に厳しいことを言うと
「こらえてやってな」と祖父は母に言ったそうです
長兄は 祖父の背中におぶわれて 生田神社にハトを見に行く時 
そのつるつるてんの頭を ぱちぱちたたいたそうです そんなときも
祖母は子どものお尻に手を添えるんですが 祖父はそれをしないなどと
そのちがいも 言っていましたね
はとぽっぽの思い出も 他にも 祖母の焼きおにぎりの思い出も
戦争は 老人たちにとっても 過酷な時代になるのですね  

《 2020.09.01 Tue  _  思い出 》