母の自伝
つづき
次男は元気に生まれすくすく育ったが 気に入らぬ事があると 顔を真っ赤にして そこらへんにいられないくらいの大声で泣いた
みんな逃げ出して泣き止むのを待つくらいだった
しまいには自分がしんどくなって ケロッとしていた
当時百日咳が流行り 長男はすぐにうつって 毎日咳をして心配させたが
よくなって安心した
次男は元気だからかからぬと安心していたら おそがけにうつってきて
なかなかなおらず とられるのではないかと心配した
いつまでも咳はとまらなかった
やがて待っていた女の子が生まれ おとなしくかわいくて みんなおおよろこびしていたのに 夏かぜで 肺炎をへいはつし 神戸でも著名な
小児科の病院にいれ看護師までつけて 必死にかいほうした甲斐もなく
一カ月の短い生涯をとじた
その時の悲しみはつづき ぼっとして あまり泣いて眼を悪くし 何も手につかず ぼんやりしていたが 後の子供たちの事を思い きっぱりあきらめて こんな事が再びないように 丈夫に子どもを育てようと決心し
再び教職にもどった
次男が百日咳にかかったのは 長女が死んで間もなくだったので 次々に子どもがとられるのではないかと 不安におそわれた
なんとわなしに 世間がさわがしくなり 戦争の不安が去来した
長女は 戦争に会わずに 静かに行ったから よかったのではなかったかと思ったりした
次男が近くの小学校に入学した頃より 世の中はなんとなしに あわただしくなり 学童疎開などが 行われるように なった
学校によってはつぎつぎ(学童疎開)出発していった
私の学校でも先発隊は鳥取県の三朝温泉に行った
長男は主人の学校にお願いして 主人と共に湯村温泉に行かせた
次男とまだ十カ月だった三男は 祖父母と宍粟の田舎に疎開させた
幼い三男が気にかかり 乳は近所の子どもにのませながら 悲しかった
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百日咳 かかると 丈夫だった次兄も 大変だったのですね
次兄は とても元気な兄ではありましたが よく咳をしていましたが
そういうところからきているのかもしれませんね
長兄が昭和11年生まれ 次兄が昭和13年 長女が昭和16年
三兄が昭和18年 こうして兄たちの 母の記憶はさまざまなことで
うめられているのですが 一人子どもを亡くすと 他の子どもでも病気になると 大変な事になるのではないかと 心配になるのですね
一生懸命子供たちを丈夫に育てようと決心したにもかかわらず
戦争です