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母の自伝

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母の自伝

つづき
空襲は日増にはげしくなり 学校での挨拶は もしぶじであったら
会いましょうだった
空襲は神経作戦で ねいりばな 夜中 朝の他 つづき警報がなるたびに
身支度をして外へ飛び出した
あちこちに赤い火の手をみながら これからどうなるか不安であった
B29は はるか大空の彼方で不気味な音を立てながら バクダンをおとして去り 港では小型の名前は忘れたが トンボのとぶように道行く人に
機銃しょうしゃをしながら港や人をおそった
近くの基地(日本)より飛行機をねらって 高射砲をうち 大きな火の玉のようなかたまりが 空に打ち上げられたが一度も飛行機にあったったのを見なかった 
こんなことで 日本は戦争に勝てるのだろうかと不安になった
地上の弱点をばかにして 大空高く飛行雲を引きながら とんでいたB29
は次第に下にその巨大な姿をゆうゆうとあらわし 所かまわずバクダンを
おとし小型のグラマンは トンボが飛ぶように集まって 機銃しょうしゃやバクダンをおとしていった
港の施設や軍需工場はつぎつぎやられた
生徒の父兄もやられた者がで出した のこった生徒は給食のみそ汁を
食べる最中 サイレンで のきしたに集めて家にひなんさせ 勉強など少しも出来なかった
二十年(昭和)三月十六日は 阪神間の大空襲だった
その時は子どもたち(自分の)を疎開させていたので 助かった
すでに家をやかれ 親とはなれた子供たち 服はやけて ぼろぼろになり
ボロのきものをつけて 大人たちに混じって ぞくぞくと私たちの山に近い家の方へひっきりなしについていく
元気な若い人は消火に協力し せずに逃げるのはけしからんと 消防の人がどなっている
私も着のみ着のままで ぼろぐつをはき 残りのきいろい米などを少しもって飛び出した みんな山の方へどんどん逃げた


母の自伝は 神戸大空襲の事を ほかのところでも 書いていました
母が実際に経験したできごとで 母は その時の様子を こんなに
おぼえていて 書き残そうとしました
こんなときでも ふりかえると 大変な事だったと 驚くのですが
いちおう学校はあり 給食もあり 親は学校に子どもを送り出し
先生は 生徒をひなんさせたり 家に帰らせたりしていました
爆弾が落ちて 子供たちの服はボロボロになり わけのわからないままに
大人について 山の方に歩いていく
親たちは どうなっているのかというのも 後になってしかわからないわけで 
こういうことが この日本にもあったのだという事です
戦争がはじまると こういうことになってしまう
今も そしてこの戦争の後も 世界のどこかで こういう事が あるのですね

《 2020.08.25 Tue  _  思い出 》