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母の自伝

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母の自伝

つづき
三男もそうだったが 後一年のところで主人が定年退職
退職金の一部を学資とし残りの配当で二女を(私)大学にいかせる計画を
たてた 女の子なので夜なんかはアルバイトをいかせなかった
息子達は卒業したらセビロ 靴など買ってやり就職させ 結婚までは何とかみてやり その次は自分のちからで生活するよう 申し伝え 三人ともそうした
嫁たちも自分で選んだのだから 親に責任はなく夫夫の自分にあった
嫁をめとり ぼつぼつ生計を立てている
娘もとつがせて やっと肩の荷がおりた
後は主人と二人だけで 老後をゆっくり楽しみに
主人に不自由させたのを 今度は何とか好きな事を自由にさせたいと願った


お金のやりくりは 母の兄弟力を合わせて がんばったを そのまま
手本にしていたのでしょう
それでも 子どもたちは 母とはちょっとずつ 違う時代を生きていたようにも思います
母はその強い意志で とおしましたが 子供たちは下に行くほど
その母の苦労を 一心に受け止めることは 少なかったんじゃないでしょうか 
こうして 母の自伝を読んでいますと 私などは いい気なもんでしたね
親は なにかできることをさせなくてはと オルガンを買い 習わせたりするのですが すぐにやめてしまいます
そんなことをして もったいない 兄はそう思ったに違いありません
大学にいっているときでも もう少しお小遣いが欲しいなあ と
それでも 簡単にはそれ以上 送金してもらえない事は わかっていました
こうして 親は みんなを大学にやり 私たちは その親の元には
帰りませんでした
親にそこまでの計画は あったのかなかったのか
就職口が 田舎ではないからなあ 母はいっていました
子供たちは 外に出て 大学まで出ると なかなか帰ってこないのでしょう 私も 大阪で就職し 大阪で結婚しました
親も めったに都会に出て来る事はありませんでした
親はそれで 多少淋しいと思ったかもしれませんが 田舎は田舎なりに
忙しかったのです ほんの少しの淋しさを いい空気にまぎらわせて
「あんたらが げんきじゃったら それでいいの」とよく手紙に書いてありました
私も そんな母の事を ときどきお手本にする事があります


《 2020.08.22 Sat  _  思い出 》