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母の自伝

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母の自伝

つづき
やがて今度は この田舎から子供たちを学校に出す苦労が 待っていた
神戸時代に将来の子どもの教育用にと 郵便局などでかけていた保険は
貨幣価値の値下げで役立たずとなった 
子供たちには何はなくても大学教育は受けさせたく 頭をなやました
私が教職についていたら何とかできたのを こんな田舎からでは大変だ
神戸を引き上げる時 主人の友人たちも神戸に残って子供たちの教育を考えようと たびたびいった
気の弱い主人は 自分の本などすっかり焼いてしまい すっかり気弱になり ただ田舎に帰る事のみ考えて さっぱり相談相手にならず 先々の事を考えぬ主人に 腹を立てたりしたが 今の状態で考えねばと 思った

そのうちに 長男の学校二年度に 次男の学校と次々 学校がはじまり出した
二人は義母の里の一室を借りて自炊させた
長男は食べ物まで減らして 本を買い 次男は授業料まで食べるしまつ
家の中を片づけず 机の上は物置でその上にコロッケがのっかったりで
そのうえ ふとんをやぶり これこそ わやなし
長男はそんなことなしにくらしていた
二人は土曜日には自転車で山崎より(高校のあるところ)帰って来た
そのときには いろいろ食べさせ かえるときは重箱にどっさり 弁当を
持たせた
やがて長男は神戸に出て 大学の寮に入った
私たちの学校教育の戦いが始まった

家の財政を子供たちに知らせ 不足分はアルバイトで補足するようにさせた 親子ともども 頑張った 
家のほうも賞与はすべて息子たちの授業料とし 月給は子供たちの学資を引き その後で家計をまかなった


父母たちは 教育に人一倍の思いがあったのでしょうか
母は 師範学校に行く事にきめた時から その思いが強かったのかもしれませんね
神戸の地を 戦争で あきらめて 田舎に帰った事も
 
上の学校に行くことは 値うちのある事だったことは確かです
高校のときから 親戚のところで下宿させてもらい 自炊をさせたとあります 長兄は かたずけていたけれども 次兄はどうです 親戚の方も
そのありさまをみて こまったものだと思ったんじゃないでしょうか
次兄の弁当箱は 二段で 確かに大きかったですね
食の細かった私には 考えられない事でした
山崎の高校は バスでも一時間以上かかります そこを行き来するのですから この時代をみんなたくましく 辛抱強く生きたんですね
お世話になったみなさん ありがとうございました

《 2020.08.20 Thu  _  思い出 》