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母の自伝

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母の自伝

つづき
戦いに負けてみると あちこちでいろいろなうわさがたち 男子はあちらにつれていかれて 労働にこきつかわれる 子供たちは殺されるとのうわさがたち 私は子供たちをどうして敵からかくすかという事に 日夜頭をいためて
いっそ今のうちに山につれて行って かくれていろうかと考えたり
食料はどうしてよいかと 心迷い 心の安まる事もなかった
私は家の近くの学校に行くよう校長先生が便利をはかってくださったが
義母はすでになし 幼い三男を他人にあづけるのが 案ぜられ
金が大事か 子どもが大事かと日々考え 遂に後者を選んで 子供たちのため思い切って教職を去ることに決心した
私は恩給まで二年ほどあり 敗戦に恩給がつくかどうか判らず 何よりも
子ども中心にした
退職金は僅か千五百円であって 米を買うために あっとなくなった
その後食糧難は続き 主人はひとり息子で 何の役にも立たず
私は当地に知り合いはなく ほとほと田舎の人は利己主義である事を
思い知らされた
都会から疎開している人は米のため衣類を次々手放し 農家の人たちは
豊かに生活した
私たちはこんな苦しい生活におい込まれ ただ子供たちに食わせるために
奔走した
この時代の事は今でも思い出したくない


母のあの時代の事は 多くのお母さんのことでもありましたね
私は子どもの頃 その田舎に住んでいて いろんな人たちに出会ってきました 
母が田舎でうけたようなしうちを 子どものわたしは あまり感じていませんでした 私は大人の中にはいっていき ぼたもちをもらったり
小さなこどもを いじめて そばでそれを見ていたその子のお母さんに しかられたりもしましたが おばあさんやおじいさん おばさんやおじさん けっこう笑いかけてくれました 
しかし おなじくらいのこどもは そうはいかなかったのです
ここで 私はいじめられたり 石を投げられたりします
それでも 少し上の子とは あそびました 
子供たちは戦後とはいえ くらしは大変な子もおり そうじゃない子もいました 私は父が学校の先生でしたから いいほうでした
兄たちは戦中戦後と 食糧難のときだったので みんなと同じように おなかをすかせていましたが 私は これはいやだとかわがままをいって がっつくことはありませんでした 食べしぶる私の横で それを狙っていたのは二番目の兄で あの魚とりの大好きな人でした

父は母の眼にはたよりなくうつったかもしれませんが なんせ父は先生をして我々を育ててくれた事には まちがいありませんね
母は 戦後子どもを敵にやられるとおそれていましたね 当時のお母さんたちは そんな風に思っていたのですね 私も本で読んだりして 知りました いろんな情報のなかで 知らないままに 不安だったでしょうね
しかし あんな大量の爆弾を落とせる戦力を持つアメリカ軍が たとえ子どもをおぶったりつれたりして 山に逃げ切れるものでしょうか
それでも しっかりした情報は わからない 今でもどこかそういうところがありますね それは恐ろしいとか不安につながり 人というのは
そうなると パニックになったりするのですね


《 2020.08.19 Wed  _  思い出 》