母の自伝
つづき
三方も住み良い所ではなかった 食糧難がつづいていたのである
私はしたことのない畑作りに専念した 種蒔きも土上げも さっぱり
できなかった 手でうねをつくってみたり 短い所一筋するのに
一日かかったりで なかなかはかどらず 苦労した
その家に義母が病で伏すようになり 食料はなし 子供たちに食べさせるものも少なく 当時白いごはんを銀めしといっていたが 百姓の子どもは
銀めしをたらふく食べたが 家の子どもはいもずるやよもぎ りょうぼなど雑草をたくさんいれ ごはんはその中に少しういている位のぞうにであった 私は子供達の成長期に何をうっても米を入手してたくさん食べさせてやりたいと焦ったが 田舎でいる私はよそもので なかなか米をわけて
くれず よそから買いに来る人に高く売りつけこちらのほうにはわけてくれなかった
南京でもと思い たくさんつくり土手に山ほどつんだが みただけでうんざりしてなかなか食べられず さつまいもを作れば 食料のないいも
まだ供出するように云われ 怒りがこみあげてけんかになったりで
そのうち義母は病没しひきつづき義父も急逝し終戦を迎えた
主人もこちらへ帰して頂いた
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何か困難なことが起こると 人々はぎすぎすしてくるのですね
祖父母や 父は よそものではなく ここの出身者ではありましたが
一度神戸に出て 帰って来ても 病気の祖父母も 父にしても
どうすることもできなかったんですね
母はなれない畑仕事で いもやかぼちゃをつくるのですね
三人の食べ盛りの子供たちに 何か食べさせたい
兄たちはいくつだったんでしょう 11歳 9歳 2歳(?)
母は とても疑り深く そして 私もそういうところがあります
これは もってうまれた性格ばかりではないのかもしれませんね
戦時中 戦後と母にとって こういうかたちでのこったのかもしれません
かって 次兄が病気になって 幻視なのか 夢だったのか 亡くなっている父と母が 畑から次兄に呼びかけたことがあったといいます
それほど 両親や兄たちにとって 畑というキーワードは大きかったんだなあと 今となっては思います
何故畑だったのか 戦後生まれの私には不思議だったのです
ソファーにこしかけて 盛装した両親が 兄に語りかけるのではなく ですね
両親も兄たちも今はなく 私はクイズの答を こうして さぐりあてることがあるのです
上の写真は カワバタさんの作品ですよ 作品などと言いますと
そんなええもんとちゃうわ と彼女は言います すてきでしょう