母の自伝
つづき
先の事を考えたら 何も出来ぬ
まず学校に行ってみようと出かけたが 毎日かよっていた道が電柱や
がらくたに(?)ふさぎ目標などすべて焼けてなく かんでさぐりつつ
がらくたの中を長い事かかって学校にたどり着いた
幸いに学校は焼けていなかったが 一歩校内に入るとあちこち死体がころがっていた
もちこんだもの 理科室の台の上に大きな男の死体があったのにおどろいた なれるとはおそろしいもので あちこちにころがっている死体も平気になり その夜から学校でねとまりした
それこそ死体の中で 生徒の中には一夜にして両親を失ったもの 母を失ったもの
幸せに暮らしていた子供が 孤児になり 行き場のなくなった者たち数知れず
私も残って 孤児になった子供 疎開できなかった子供の第二陣の児童をつれて先に行っている子供たちのいる鳥取県の三朝温泉に行った
私の三男も幼いので 姑がついて一緒に三朝に行った
食料不足で子供たちは畑のものを盗んでどなられ 畑に入っては踏みつけたといって叱られ 何不自由なく暮らしていた子供たちをみるのがつらかった
寮母さんたちは子どものせんたくもの 食べるものつくりに大わらわで 中には寝小便のある子供もアリ 夜おこしてつれていっても かならずおとし ふとんほしもあった 大変だった
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8月15日の日に 母の自伝は 戦火の中で 子供や大人がどういうくらしだったのかを書いていますね
母は小学校の先生でしたが あの戦争中 神戸に残って どういう仕事をしていたのだろうと思います
そんななかでも その学校の生徒がいる訳で その子らを三朝温泉などに疎開させる仕事がありましたね
しかし ガード下などにいた子供たちは どうみなされていたんでしょうね 母は自分の学校の生徒に関わる仕事 他の学校の先生は またそこの生徒 というふうになっていたんでしょうかね
私は この自伝を一度は読んでいたと思うのですが こういう疑問を母に聞いておく事はありませんでした
上の写真は おいしそうな白い米のごはんですね
母の話でも 食料不足は大変だったのですね
何不自由なくくらしていても 突然ふりかかってくるできごと
こういう歴史を知りながら 今を見ていく
母の生きて来た歴史は こうでしたが 私たちもこれから いろんなできごとに出くわし 驚く事もあるはずです