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母の自伝

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母の自伝

つづき
三番目に大望の女の子が生まれた
大きくおとなしく赤ちゃんににあわず桃色をした 本当に可愛い女の子だった
おぢいちゃんは 可愛い姫が生まれたといってそばにいつもついておられた おばあちゃんは女の子だから地味なねんねこはだめだといって はでな着地で ねんねこづくりやら 赤い着物の準備をされた
姑は手先の器用な人で着物をぬうのは大変上手だった
八月のあつい時に生まれ 女の子でおとなしく人形のように美しい赤ちゃんだった 夏あついときだったので あせもを恐れて湯をわかしては 行水させた とうとう風邪を引かせてしまった
うぶ風邪はなおらぬとと云われたくらい 赤ちゃんのうぶ風邪はきけんなのだ 近所の医者に見せたら 赤ちゃんのことだから よい病院に入院させなさいと云われ 当時神戸でも有名な病院に入院させた
熟練した看護師をつけたが 医者はなかなかみてくれず 早 肺炎をおこして大きな酸素吸入で酸素を補給し たんは綿棒で看護婦さんが取り出したが 息が苦しそうで 小さい声で泣いている赤ちゃんを見るとつらくてこちらが息が切れそうだった
綿棒にはさびたんがついている これは急性肺炎との事 おおきなぱっちりしたきれいな目でじっと私をみている
かわれるものなら かわってやりたいこの苦しみを 何とかとってやりたいと命のちぢむ思いだった
私をじっと見つめながら息を引きとった
あんな苦しみを長くさせたくないと思いつつも 悲しさと可哀想さに
この子と一緒について行きたいと 嘆き悲しんだ
しかし家には大事な息子達もいると思い返し 可愛い可愛い娘をだいて
家に帰った
余りの悲しさに産後にあまり泣いて眼を悪くし 医者がよいした
わたしはその後立ち直るのに 相当かかった 
又戦争もおこり あの子は戦争のために早く亡くなったのが幸せではなかったかと かってな理屈を付けて自らをなぐさめた
洋子は(亡くなった子供) 昭和16年八月十九日に生まれ九月十九日に召された
家の上の方にやき場があり 終日大エントツから煙が上がるのを 家から
ながめられた
洋子もそこでやいた
あまりに小さいままに召された可愛い娘 あきらめきれないお骨ひろい
に行って また泣いた
片手に全部のるほどの 小さい小さい骨だった
私は一つものこらぬように全部拾った
今では家の墓地に祖父母や父とともにねむっている
今だに洋子の年をかぞえて忘れることが出来ない その悲しみの後に
また洋子が生まれ変わって来るのを楽しみにしていたが 男の子だった(昭和18年)
しかし その面影の洋子にそっくりなのをみて 私はやはり洋子が 再び
手許にかえった事を思い 再び我が子が取り返せたと思い大事に大事に育てた


洋子姉は一カ月の命だったのですね
悲しい別れだったんですね
母は その話を なんども私にしました 父は しませんでした
その悲しみに 耐えられないといったふうに その後 昭和18年
勲兄がうまれています やはり眼のぱっちりとした かわいい男の子でした 兄は63歳まで生きました 母よりおそくまで生きたのです
この兄があかちゃんのとき どんなに可愛かったか 私はよく母から聞きました ここのところで可愛いの山場はすぎているのには ちょっとがっかりでしたが(わたしのところにまわってこない)
母は いろんな理由を付けて この悲しい出来事をこえようとしたのですね

この金魚の素敵なのは 知り合いの方ののれんだったと思います
《 2020.08.13 Thu  _  思い出 》