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母の自伝

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母の自伝
つづき

学校の方も次第に楽しくなり 劣等感も次第に去り たくさんのよい友が
次第に出来た
はじめこまったのはオルガンの練習だった 一度もひいた事はなく 然しある程度まではできないとだめだし 頭を痛めた
都会の友はみんなひけた 私はまけてたまるかと一生懸命に頑張った
早くひける人を次々おいこし初期の人を検定するまでになった
それからは 面白くなって大分いろいろな曲がひけるようになった
いろいろと勉強がむづかしくなり 気の弱い人は英語がわからないといって泣き出す人もあり 私はそんな友をなぐさめる役になり 「しっかりし
みんなわからぬのは一緒だから」といって励ました
私自身は最初のうちは神戸で兄に習っていたので 楽していたが なまけて次第にむつかしくなって手こずった
学校になれるにしたがって 友だちの中にはあだなづくりの名人が名人があって先生のあだなをつくり 小さい紙に書いて授業中にまわした
みんなたいくつしている時もあるから 次々よんで先生の目を盗んで次ぎにまわした
覚えているのは校長先生のエモン竿 いつも肩をはってきんげんでしせいがよかった 教頭のハゲチャビン 科学の先生ゴリラ 歴史の先生坊ちゃん 地歴の先生は気の毒 さる毛でいつも髪が立っていたからプール
細くてなぜがたの英語のやなぎごし 裁縫のおにばば
全部の先生にあだながついていた そのつけかたのうまさに 感心したが
そのほかは忘れた

いつかその紙を先生にひろわれて 気の弱い英語の先生は 「私やなぎごしですってね」 と云われた時は気の毒で 自分がつけたわけでもないのに
頭が上がらなかった


あだな ニックネームですか つけますよね 
なかなかおもしろいじゃないですか
母の時代の人たちは いつも 緊張していて勤勉で 大変だったのかなあ
と思っていましたが どっこい こっそり やっていたんじゃないですか

イルカですか?この絵は 子供がほんの子どもだった頃 描きました

この師範学校の話を読んでいますと 受験する頃には たいがいのことができるということではなく 受かった後も はじめてソロバンをしたり ピアノを弾いたり おもしろいですね どういう基準なんでしょうね
それでも 教える先生を養成する所 このやりかたは 教えるということ
教わるという事 自然と身について行くんじゃないでしょうかね

《 2020.08.08 Sat  _  思い出 》