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母の自伝

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かって 子供が小学生だった頃 「迷路』を 上のように描くのが
はやっていました お客さんの中には覚えてる方いらっしゃいますか
これは 案外 シンプルですが 熱が入ってきますと とても複雑で
こまかい迷路なのでした
私たちも それぞれに いろいろな道を歩む事になるのではないでしょうか 結果的に こんなふうになっていたみたいなね

さて 母(祖母)の話も 終わりに近づいてきました
母はまた ハタオリをしてわたしたちのふだん着を いろいろ模様を入れてつくってくれた
着物も手で計りて 冬は綿をたっぷり入れた綿入れの着物やハンテンをつくってくれた
今でも母のおった着物のがらを あざやかにおもいだすことができるのである
母は字も書けなかったが見よう見まねで一通りの事は何でも出来た
父の存命中お盆が来ると表つきの下駄をかってもらってはいたが 父
がなくなってからは表つきではなくなった
母の妹のおたまおばさんは 男女一人づつの子供があったが 長男は
戦死し 長男の嫁と娘のことで いろいろわずらわしいことがあったが
今は娘が家をつぎ 養子をもらったが 子もなく病気がちで こどものころ 両親の愛を一身にうけ 私たち兄弟の多い物はうらやましかったが
今は幸せではない 叔母も後の事を心配しながら他界した

美保神社は事代主命をまつったお宮で 大社は大国主命をまつり 親子の関係である いろいろ由しょあるまつりが春秋にある
神社の裏に私たちの幼い頃 池があって鶴がすんでいた 何羽いたのか
その後どうなったか判らぬが 現在 池のあとはあるが 水もなくさびれている
昔は神仏混合とかで お寺と神社が共にあったと聞く
弟が私のあだなを神宮寺の鶴(名前は鶴子)というのはここからきたのである


おばあさんは 学校に行ってなかったけど 見よう見まねで一通りの事は出来たとありますね
そういえば 夫のお母さんもそうだったと思います そういう話を夫からききましたよ
ハタオリをして こどもたちの着るものをつくる 今ではなかなかできないことですよね
困ったときは兄弟で助け合い 母親は 子供たちにできるかぎりのことをしていた 父親をなくして 貧しかったけれども とても暖かな感じがします
時代はかわり 私は この時代の人々の話を読みながら その生きている事の確かさというか 地に足がしっかりついていると言うか 感心しているところです


《 2020.08.01 Sat  _  思い出 》