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母の自伝

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次兄の事

それから 兄は長男を失い娘と三人でいばらの道を歩いた事と思う
あれだけ期待され前途洋々だった兄 私は親として子供に重すぎる期待は絶対にしまいと心にちかった
夫夫に人に迷惑をかけず正しい道を歩んだらそれで充分だと兄のことを思い深く心にめいじた
現在兄は埼玉の方で娘夫婦老夫婦と静かに 老人会などの講師をしたりしながら静かに老後をおくっている
いつまでも幸せで長生きしてほしいと 切望している
兄は常に年取ってからでも経理の仕事ができるのは 親に学校に入れてもらったおかげだと常に感謝していた


そうですか
生きていると このように 大変な事を経験するのですね
お客さんはどうですか
今の時代だって 病原菌で 世界はたいへんなことになっているんですよね
予想外の出来事 あるんですね
母は兄さんの事 「いばらの道」と言いましたが それを助けたのも 兄弟だったりしたそうです こういうお金の事で困難が起こると 家族や親族はばらばらになったりします
祖母(母のお母さん)が年取って病に倒れた時 母について幼い私も
行きましたが 次兄の娘であるお姉さんは とてもいい看病をしたそうです 私はそのお姉さんにアメを買ってほしいとか いろいろねだったりしていました お姉さんは子供のときに木馬からおちて 片方の足が不自由でしたね
みんなお母さんのもとに 集まっていたのですね
母の里にいちばん長い事いたのは この時期でした
長兄のおじさんに海に連れて行ってもらったり 従妹たちにあったり
母につながる人たちに ここで出会ったのでした
おとらおばさんは たえず忙しそうに 魚の煮つけや おさしみや
いろいろつくってくれました
子どものわたしは もう魚は食べれないなどと わがままでした
「ここは 魚だけじゃけんねえ」おばさんはわらいながら言っていました
兵庫の実家から バスに乗り 汽車で鼻の穴真っ黒になりながら
最後は船で トビウオなんどをみながら やっと美保関という小さな
港町につくのですが 私は乗り物に弱くて まっさおなかおをして
たどりついたのでした
母は お母さんにどんな看病をしていたのでしょう
子どものわたしは うかがいしることのできないことで 魚をみたり
(うみがすぐそばにあるのです 鍋がそこで洗えるくらいの所)
していました

次兄のおじさんは 確か俳優の森繁久彌さんのような顔でしたね
おばさんは おしろいのかわりに てんかふんをぬっているんだと
言っていて 私はいまでもそうしています
つまり おじさんは 長い年月の間に その人なりの幸せを つかんでいたのですね

母は 子供たちに無理な期待をしないと心から思ったようですね
私たち兄弟にはどうだったのでしょう
3人の兄たちには 父も母も期待したと思います
その子が できれば やはり期待してしまうものでしょう
私ですか? 期待するには ええっと なんですね 
たいきばんせいがた なんてことばを 親からいただきましたね
私の子供たちは 成績優秀な子は いなかったんじゃないかなあ



《 2020.07.18 Sat  _  思い出 》