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母の自伝

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こんどは 「父のこと」です
あれ こんなに短い 早くに亡くなっているという事でもありますが


父のこと

父は早くして亡くなったので あまり思い出がない
それにきびしい人だったので 近よりがたかった
祖母たちの話によれば大変頭のすぐれた人で 当時まずしかった家計を
助けるため学校も休みがちであったが成績は優秀だったといっていた
近所ののぼりなどをなどをかいてあげる所をみると 絵や書が上手だったと思う。二階の戸棚をあけると父の使った分厚い航海の本やきかいの本がたくさんあった。きけば父は本を買って独学し 船員となり機関長や船長の免状をとり 当時おきの島に通っていたおき丸の船長や機関長などをしていたときく
当時父は老人を大切にして 帰った時には近所の老人などにごちそうや酒などを出していたときく
だたし 子供たちにはきびしく うそをつくのがだいきらいだった
私も強情だったのか お客様にあいさつせんといっては叱られ いつも家にいない父だったが ちかよりがたくきらいだった
弟もよく叱られた 父はお酒が大好きで家にいると時はいつもお酒をのんでいた 
40歳ぐらいだと思うけど 病気になり神戸にいっていた叔母がかえって看病していた
47歳くらいで死亡したと思うけど 小さいときではあり きびしかって
余り悲しくはなかったが 母の悲しみをみて一緒に(泣いた)
今でも父の面影ははっきり思い浮かべる事が出来る
父は大変清けつずきで ハイ(ハエ)のとまった食べ物は絶対に食べさせなかった 当時田舎では母親が固い食物はかみくだいて子供の口に入れる人が多かったが そんなことは絶対させなかった
弟のかいた肖像画が当時の父の面影をはっきり思い出さしてくれる


母の悲しみをみて(  )よめないなあ
そうだ泣いた これですね
母は そういう父の影響か 清潔にしていましたね 赤ん坊にかみ砕いた物をやるというような事は なかったと思います
まあ それもばい菌とか衛生上ではよかったんだと思いますが
ちょっと冷たい感じもします
父親は短い間でも 子供に何か影響を与えていたんでしょうね 小さな漁村で みんなが 学校に行かせてもらった事は(長兄はしっかりと家を守りましたが) 父親の影響は母親に受け継がれ 兄弟母子が助け合ったんじゃないでしょうか
まねのできないことでした
母は亡くなるまで正直で 率直に物を言う人で ここでもお父さんはきびしくてきらいだったと はっきりいっています
しかし そのお父さんが亡くなったとき母親の泣く姿をみて また大人の悲しみをみているんですね
教育という言葉がありますが 家族や 親族 そしてまわりの人々のなかで われわれは 知らず知らずのうちに 影響を受けて あるときはそれが糧になり 生きていくんでしょうかね
もう母もその弟も亡くなって久しいです 弟(叔父)の描いた父の肖像画はどんなものだったんでしょうね


《 2020.07.12 Sun  _  思い出 》