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母の自伝

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母の大学ノートでの自伝を 書き写せる物なら やってみたいと思いました 
母は78才の時に(はっきり計算はできないのです)これを書いているようです。
私は今71才 
母のノートには62、4と書いてあります 計算の弱い私は
これが昭和62年なのか 1962年なのか最初は分りませんでした
西暦・和暦・年齢早見表を見て計算してみると 1962年だと53才
昭和62年だと78才ということになります(あってますよね)
自伝という物は やはり78才ではないの? ということで とりあえず。

なにせ母は26年前に亡くなっているのです
ええー! もう26年もたっているの お母ちゃん
1994年の末に亡くなったのですが 自分の中ではそれを基準に年月があるというふうになっています だから1994年はちっとも前じゃないようで こうして計算してみて驚きました

さて 少しでもいきますかね
1ページ目は 「姉のこと」からはじまっています
島根県の美保関の母の姉のことです しーちゃんの祖母です


私の生まれた所は 小さい観光地で漁村
日本海に面して出雲冨士が海の向こうにそびえ 冬は雪の深い田舎町で冬の間はほとんど乾いた土を見ることはできなかった。
春が近づいて雪の間から少しでも乾いた土が見え出すと子供たちは
春が来たといって大よろこびしたものだった。
私は幼い頃 からだがあまり丈夫でなかった。
雪の日に 姉にネンネコでおぶってもらうのが大好きだった。
歯の高いつま革のついた高下駄の音をききながら ネンネコにすっぽりはいっているのは なんとも気持ちのよいもので あの気持ちはいまだに忘れる事ができぬ。
今では姉も90才に近く二まわりくらい小さくなって せをまるめて歩くけど なかなか足はげんきで さっさと歩く。
私は学校の行き帰りに必ず姉の家により 私が師範学校の入試を受ける時でも 姉に勉強をみてもらった。姉は大変頭がよくて 何でもよく出来た。私は少々のんびりしていたので 姉のいっていた伯母の家の祖母は
お春ならさっさと試験が通るのにと しきりにいっていた。つづりかたを書いている 冬の日のこと わたをちぎったような雪がふってきてとか 色々な形容詞も教えられたが 私はそれだけより 今のところおぼえていない。
姉について山にきのことりについてゆくと
姉は大変すばやく ついて歩くのがやっとで うろたえて 折角でている茸をふんで姉によく叱られた。
姉の長男が生まれる時 母は姉のそばにつききりで、産婆さんはいたのかどうか覚えていないが 学校のかえりによってみると 母は仏様にローソクをつけせんこうをつけて一生懸命おがんでいた。何かぼそぼそいっていたが きこえなかった。姉がこんなにお腹がいたい時に来たらいかん 帰りなさいと叱られて 家に帰った。
姉は優秀の頭をもちながら 早くから子供のない伯母の家にいっていたので上級の学校には入れてもらえなかった。父は大変怒って 家から学校に出すからかえせといって先方の伯母夫婦とよくけんかしていたのを覚えている。 姉はもらわれ先の祖母に大変かわいがってもらって おばあさんをほってかえれぬといって居残った。先方で姉はいろいろのことを習った。手先のきような姉は当時あまりなかったミシンをかってもらい どこでならったか覚えぬが 洋裁でも何でも手ぎわよくとても手早く作った。又和裁でも何でも縫った。当時流行していた日本髪も伯母にならって ちゃんとゆえた。ししゅうでもあみものでも きつけでも何でもできた。
伯母とはあまり意見があわず ずいぶんつらい思いをした。
父のいちばん後悔した姉のことだった。
私が結婚するときも 姉が来ていろいろ準備をしてくれた。日本髪をゆうのに痛いといって姉とけんかをしながら ゆってくれた。着物はすべて姉がした。姉の一番下の一人娘をつれて来ていたが仲なかのげんきもので 近所の子供が田舎ことばをからかうと 棒をふりあげておっぱらってしまうほど げんきものだった。


ああ つかれた
まえにも 母の日記を書き写した事がありますが 続け字が なれなくてね。
母の結婚式の写真は覚えていますが たしかにげんきものの一人娘が
着物を着て写っていましたね
母は 私にとっては とてもたよりになる人でしたが この姉さんにくらべると のんびりで 身体も弱かったのですね。
私は 母の姉さんのことも 母の死後 美保関に家族で行ったので 覚えています。母とだいぶ歳が離れていたのですが 母の方がはやく亡くなっていますね。姉さんとはよほど 思い出がいっぱいあるらしく まだまだ
つづきます。

《 2020.07.08 Wed  _  思い出 》