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こころ 夏目漱石

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こころ 先生と遺書 夏目漱石 つづき

私の胸にはその時分から時々恐ろしい影がひらめきました。はじめはそれが偶然外から
襲って来るのです。私は驚きました。私はぞっとしました。しかししばらくしているうち
に、私の心がそのものすごいひらめきに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生まれた時から潜んでいるもののごとくに思われ出してきたのです。私はそうした心持ちになるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。けれども私は医者にもだれにも診てもらう気にはなりませんでした。
 私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看病をさせます。そしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思ったこともあります。こうした階段をだんだん経過してゆくうちに、人に鞭うたれるよりも、自分が自分で鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起こります。私はしかたがないから、死んだ気で生きていこうと決心しました。
 私がそう決心してから今日まで何年になるでしょう。私と妻とは元のとおり仲好く暮らしてきました。私と妻とはけっして不幸ではありません。幸福でした。しかし私のもっている一点、私にとっては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。

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 「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺激でおどり上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つやいなや、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だとおさえつけるように言って聞かせます。すると私はその一言ですぐぐたりとしおれてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締めつけられます。私は歯を食いしばって、なんでひとのじゃまをするのかとどなりつけます。不可思議な力は冷ややかな声で笑います。自分でよく知っているくせにと言います。わたしはまたぐたりとなります。
 波瀾も曲折もない単調な生活を続けてきた私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思ってください。妻が見てはがゆるまえに、私自身が何層倍歯がゆい思いを重ねてきたかしれないくらいです。私がこの牢屋のうちにじっとしている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破ることができなくなった時、畢竟(ひっきょう)私にとっていちばん楽な努力で遂行できるものは自殺より他にないと私は感ずるようになったのです。あなたはなぜといって目をみはるかもしれませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のためにあけておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。
《 2019.10.09 Wed  _  読書の時間 》