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こころ 夏目漱石

「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき

36

 この冬以来父の病気について先生からいろいろの注意受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙の中にも、私は父のとてももとのような健康体になる見込みのないことを述べた。一度などは職務のつごうもあろうが、できるならくり合わせてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。そのうえ年寄りが二人ぎりで田舎にいるのはさだめて心細いだろう、我々も子として遺憾のいたりであるというような感傷的な文句さえ使った。わたしはじっさい心の浮かぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
 私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄者のように思われてきた。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦のことを思い浮かべた。ことに二、三日まえ晩食に呼ばれた時の会話を思い出した。
 「どっちが先へ死ぬだろう」
 私はその晩先生と奥さんの間に起こった疑問をひとり口の内でくり返してみた。
そうしてこの疑問にはだれも自信をもって答えることができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬとはっきりわかっていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるよりほかにしかたがないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国もとに控えながら、この私がどうすることもできないように)。私は人間をはかないものに観じた。人間のどうすることもできない持って生まれた軽薄を、はかないものに観じた。


「先生と私」はここまでなんですが たいとるである「こころ」ということばより
「軽薄」という言葉が気になりました
身近な人の「死」を考えてみるとき それは まだ死をむかえた人のことではありませんが「私」のようにいろいろなことが思ったんですね
「私」の兄にあてた手紙は すでに父の死は確実であり 兄弟二人して会っておいたらいいのではないかというようなことまで 書いているんですね
「私」はその後 つまり書いた後気分が違っていたと
矛盾を「私」は考えていますね
考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄者のように思われてきた 不愉快になったと言っています
若い「私」は経験する前と 経験した後とでは 考えが違っていたりします 「私」はほんとうに そういうことを素朴に 述べていたりして
寡黙な「先生」は大人 おしゃべりな先生の奥さんも大人
大人を相手に 話しかけていく

「先生と私」36までもあったんですね 長かったなあ
自分は ここで どういうことを考えたのかな 案外内容のことを気にしていませんでしたね 
 先生 私 先生の奥さん そういうひとり一人に 言葉を喋らせている
そういうことって 小説ではよくあることなんですかねえ
で はたと気づくのです よくあるよくある
これぐらいのことで すみません
しかし 小説家に人は この配役をまずきめてから 骨組みを整えて行くんですね
そう考えますと 頭の整理できる人じゃないと できませんね
私は日記なんか書いていて これは小説に簡単に繋がるのではないかと思いましたけど
これはまちがいでした 70歳間違い記念






《 2019.05.15 Wed  _  読書の時間 》