「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
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「なぜ」
「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それともおれのほうがお前よりまえに片づくかな。たいてい世間じゃ旦那が先で、細君があとへ残るのがあたりまえのようになってるね」
「そうきまったわけでもないわ。けれども男のほうはどうしても、そら年が上でしょう」
「だから先へ死ぬという理窟なのかね。するとおれもお前より先にあの世へ行かなくちゃならないことになるね」
「あなたは特別よ」
「そうかね」
「だって丈夫なんですもの。ほとんど煩ったためしがないじゃありませんか。そりゃどうしたって私のほうが先だわ」
「先かな」
「え、きっと先よ」
先生は私の顔を見た。私は笑った。
「しかしもしおれのほうが先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」
「どうするって...」
奥さんはそこで口ごもった。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分をかえていた。
「どうするって、しかたがないわ、ねえあなた。老少不定っていうくらいだから」
奥さんはことさらに私の方を見て冗談らしくこう言った。
*
老少不定 人の命数は定まりなく、死期は年齢によって予知できないという意味の語
70代になりますと こういう会話が リアリティをもってきます
先生夫婦と若い「私」ーこういう会話は「私」がいて 小説している感じにしておこうと
思ったりします
先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった