「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
31
その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私はむしろ先生の態度に萎縮して、先へ進む気が起こらなかったのである。
二人は市のはずれから電車に乗ったが、車内ではほとんど口をきかなかった。電車を降りるとまもなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴れやかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かもしれない。精出して遊びたまえ」と言った。私は笑って帽子をとった。そのとき私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと疑った。その目、その口、どこにも厭世的の影はさしていなかった。
私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を告白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられないことがままあったと言わなければならない。先生の談話は時として不得要領に終った。その日二人のあいだに起こった郊外の談話も、不得要領の一例として私の胸のうちに残った。
*
不得要領 こんなことばこそ 説明してほしいです
同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられないこと これかな
先生は 「憎む事を覚えたのだ」と言ったのに その後は 晴れやかな表情さえしていた
先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと疑った。「私」は不得要領のまま 電車を降りると間もなく先生と別れなければならなかった。
心をつかもうとしても なかなかつかまらないものだと