「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
30
「やあ失敬」
先生はこう言ってまた歩きだした。私はとうとう先生をやりこめることを断念した。私たちの通る道はだんだんにぎやかになった。今までちらほらと見えた広い畑の斜面や平地が、まったく目にはいらないように左右の家並みがそろってきた。それでもところどころ宅地の隅(すみ)などに、豌豆の蔓を(えんどうのつる)竹にからませたり、金網で鶏を囲い飼いにしたりするのが閑静にながめられた。市中から帰る駄馬がしきりなくすれ違って行った。こんなものにしじゅう気をとられがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落としてしまった。先生が突然そこへあともどりをした時、私はじっさいそれを忘れていた。
「私はさっきそんなに興奮したように見えたんですか」
「そんなにというほどでもありませんが、少し....」
「いや見えても構わない。じっさい興奮するんだから。私は財産のことをいうときっと興奮するんです。君にはどう見えるかしらないが、私はこれでたいへん執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
*
この先生と私のやりとりが おもしろいですね
人は 道で 大きな声で(ふつうの声かもしれませんが)こんなこと しゃべるのかしらとー
「いや見えても構わない。実際興奮するんだから。私は財産のことをいうときっと興奮するんです。君にはどう見えるかしらないが、私はこれでたいへん執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
小声で喋ったり 大声だったり 調節の利かない時ってあるのかもしれません
道を歩いていると そんな話が聞けるかもしれません
われわれは 先生ほど執念深いと思ってはいないのかもしれませんが わかりませんよ。 ここで 話を聞きながら どこかそんなところが たとえば先生の場合は財産のことお金のこと 屈辱や損害を受けたことに関して そうなるのですね。
お客さんどうです?