「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
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先生の口気(こうき)は珍らしく苦々しかった。
「そんな事ちっとも気にかけちゃいません」と私は弁解した。
「君の兄弟は何人でしたかね」と先生が聞いた。
先生はそのうえに私の家族の人数を(にんず)聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父や叔母の様子を問いなどした。そうして最後にこう言った。
「みんな善い人ですか」
「べつに悪い人間というほどのものもいないようです。たいてい田舎者ですから」
「田舎者はなぜ悪くないんですか」
私はこの追窮に苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚なぞのうちに、これといって、悪い人間はいないようだと言いましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に(いがた)入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。それが、いざというまぎわに、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
*
先生の前で机に座って この話を聴いています
これは他人の話であり 自分の話でもあるのです
こうして問答のように聞くと はじめて聞いたような気になるから
不思議です