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母のひっこし

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母が この信州に 兵庫から引っ越して来る
神戸で小学校の先生をしていた母は 第二次世界大戦も終わりに近づいているころ
神戸大空襲で焼け出されて 父の実家のある兵庫の山あいの村に 行くことになった
祖父母 両親 神戸で生まれた四人の兄弟(そのうち女の子はあかちゃんのときに亡くなっている)それぞれが どんなふうに その家にやってきたのか 私は一人いた兄に何度聞いても 忘れるので 兄が亡くなった今 もう わからない
その家族が 無事にその家に集ったことは 確か
しかし 祖父母は祖母がはじめに 祖父が次に 相次いでなくなっている
敗戦を知らずして
祖父は 日本が負ける筈がないといってたそうだから そのことを知らずになくなったのはさいわいだったと 母は言っていた
テレビドラマやドキュメンタリーで 戦時中や戦後まもなくのころの 大変な時代を見ると 神戸の町を逃げ惑う母とかさなるし 母が疑り深かったのは そう言う時代を経て来たからだと自分は思っている
ついでに 私も疑り深いのは そこからきているのかもしれないと思っている
父は 私が物心ついた時は 中学校の校長先生をしていた
私は神戸生まれではなく この兵庫で生まれた
父は先生だったけれども 母は 畑を耕し それは はじめての経験だった
母は 海辺で育ったからだ
とにかく 畑や果物や私の目の前には あたりまえのようにあると思っていた
しかし この歳になると あの村に来た時は 母は 食べるものを つくるのに
必死だったのだろうと わかる
終戦の四年後 私は 紅一点 ひょっこり生まれたのだ
私をおんぶしたりおむつをかえたのは 兄たちだ
そんなときのことを おぼえているはずはないのだけど 忙しい母に変って 子守りをしてくれたのだ
最初こそなれないそこでの暮らしだったというが 母は婦人会に出たりして 友だちを
つくっていき そのおかげで 食べ物も少しずつ分けてもらったり なによりも母は
外に出て行くことで 元気になって行った
私はそういう母のこと あんまりよく思っていなかった
歳の離れた兄たちだから 兄弟で共にいるということが少なかった 
母は私といることが長かった
兄たちは 勉強もよくできた 私はというと がんばろうと思うんだけど
そうはいかなかった
そんな私も外に行き 父と母は2人になった
私は 結婚も お見合いをくり返したり 年老いた父母に苦労をかけてしまう
長い長い子育てだった
兄たちも 私も その家をつぐことはなかった
わたしが結婚をし 孫が生まれるのと入れ替わりのように父が亡くなり
母は一人暮らしになった
母は 古いがらんとした家にいて それでも住み慣れた所におりたがっていた
「ふっと目が覚めると ひとりじゃなあと 思う」 そんなことを聞くと
私は 何とかしなくてはと思った
それでも母は 子供の所に行く決心がつかなかった
たまに産後の世話に娘の所にいっても 子供が5人 ごちゃごちゃしてる
家に帰れば テレビだってゆっくり見れるし 畑に出れば気が晴れる
近所の人と言葉を交わすこともある
しかし 私は そんな母を強引にときふせて 信州に連れて来たのだ
大阪はまだ 兵庫の母の所と近いと思ったけれども 信州は遠すぎると
母は あそこでコケのように いついていたのに
そういうもんだと 今の私は思う
母の引っ越しは 家にあるものを できるだけ信州のうちに送りつけることから始まった
引っぱがされる痛みを少しでも ましにしたかったのかもしれない
いろんなものを送って来た
一部屋に どれだけはいると思っているのだろう
父の着ていたものまで
畑をおくってこなかったのは ふしぎ
母は1994年の終わりに亡くなった 神戸が震災で大変なことになる前
母は戌年で その歳も戌年 ぎりぎりで母らしいと思った でも葬式に来る親族は
年の暮れなので 大変だったろうと
兄も 戌年の年の暮れに亡くなった
われわれの一番の引っ越しは 死をむかえることだろう
 
《 2019.02.20 Wed  _  エッセー 》